夢という言葉を忘れたころに



「トモ！　久しぶりだなっ！」
「――」
「こうして直接会うのはベルリバティを卒業して以来じゃないか!?　うわあ、すごい偶然だな〜」
「……」
「あ、そうだ、トモ、携帯の番号変えただろ!?　電話もつながらないし、アドレスも違うし、トモと連絡取れなくて困ってたんだからな！　ここで偶然会えてよかったよ。早速だけど、今の番号教えて……」
「……離せよ、勇気」
「あっ、ご、ごめん！　トモ見た瞬間にびっくりして引き止めなきゃって思って思わず……」
「……」
「……トモ？」
「ほんと、偶然だな。相変わらず勇気は元気そうだな。――じゃあな」
「じゃあなってトモ、待てよ！　今の連絡先教えてもらってないだろ。今急いでいるのか？　でもせめて連絡先ぐらい……あ、トモの方から俺にかけてくれるのでもいいけど」
「わかった。じゃあ今急いでいるからあとでかけるよ。またな」
　智友が、少しだけ笑みを浮かべて手をあげる。
　だが、勇気の直感が告げる。智友は適当にそう言っただけで、本当には電話をかけてくる気はないと。
　勇気は慌てて智友の腕をつかんだ。
「待てよっ！　トモ、俺にかけるなら今すぐここでかけろよ。じゃないとこの腕は離さない」
「腕を離さないって、今急いでいるって言っただろ」
「そう言って、この場さえかわせばいいと思ってるだろ？　トモ、本当はあとでかける気なんかないんだろ!?　今すぐここで、俺にかけてみろよ」
「――」
　勇気に自分の気持ちを言い当てられて、智友はため息をついた。
「トモ！」
「……勇気の番号なんて知らないからかけらんないよ」
「なんで…だって俺はずっと番号かわってないぞ」
「とっくに削除したからな」
「……っ、なんでっ！」
「なんで？　馬鹿だな、勇気。必要なかったら消すのは当たり前だろ」
「――っ!!」
　勇気は智友の腕をつかんでいた手に思わず力を込めた。
「もういいだろ。いい加減、手離せよ」
「……手を離して、それで？　そのままトモは俺のこと切って行っちゃうのか？」
「何年も前の人間関係にこだわる勇気の方がおかしいんだよ。たかが三年間同じ学校に通ってたってだけだろ。卒業すればもう他人だよ」
「そんなことない！　俺は今でもベルリバティの人たちとつながりを持ってる！」
「ああ、勇気はあの頃から大人気のエース様だったもんな。じゃあ俺の方がおかしいのかもな。いいよ、それで」
「トモっ！　卒業すれば他人て、卒業しても俺たち連絡を取り合ってただろ！　ここしばらくは連絡取れなかったけど、でも、俺たちずっとっ」
「勇気が、一方的に俺に連絡をしてきてただけだろ。俺からした覚えは一度もないよ。勇気はうるさそうだし、しばらく付き合ってやっただけだ。でももう俺、疲れたんだ。他の人と連絡取りあってんなら俺一人ぐらいいいだろ。もう煩わしい付き合いから俺を解放してくれよ」
「トモ……っ!!」
　手は離さないまま、勇気が俯く。勇気のショックを受けたような顔をちらりと見て、智友は顔をそらした。相変わらず情に厚くて、こんな言葉にもいちいち傷ついている。じゃあもういいと、さっさと切り捨ててしまえばいいのに、そうはできない優しい勇気。
　――昔もずっと優しくていつも前向きで、変わらないからこそもう断ち切りたい。
「……トモが俺のこと切りたいっていうのはよくわかった。でも、俺はそれを受け入れられない。トモとちゃんと話がしたい」
「俺には話なんてないけど」
「……」
「いまさらする話なんてなにもないだろ」
「……理事長、やめたって聞いた。それに今何してるのかとか、トモがいままで俺のことをどう思っていたのかとか、話したいことはいっぱいある」
「そんな話無意味だろ。俺も無駄な時間使いたくないし」
「俺にとっては無意味じゃないよ。すごく、すごく大事なことだよ」
「……平行線だな」
　智友は再び溜息をついた。ちゃんと話をするか、今の正しい連絡先を知らせるまでは、勇気の手は離れないように思えた。このままここですべてを終わらせることを、勇気はきっと受け入れないのだろう。
　携帯を変えてそんなに経っていないのに、ここでこうして偶然会ってしまうことも勇気の運の賜物かと思うと、智友としてはいまさらながらに勇気の運に対して忌々しさが募った。
　数年間感じることのなかった勇気の体温が、腕からじわじわと伝わってくるのも、智友の気を滅入らせる。そのくせもう自分で振りほどけないのも。
「トモ……いったい何があったんだよ。なにがトモを変えたんだよ。学園であんなにたくさん楽しい毎日を一緒に過ごしてきたじゃないか。なのに、なんで」
「勇気からすれば俺が変わったように思うのかもしれないけど、俺はあの頃となにも変わっちゃいないよ」
「でも、トモらしくないだろ。こんなのっ……」
「だから、俺はずっとこうだったよ。俺らしくないなんて……」
　勇気の言葉に、智友は笑みを浮かべずにはいられなかった。三年間、ずっとそばにいたけれど。
「勇気が本当の俺を知らなかっただけだろ」
「――っ」
「だからって別に勇気のことを責めてるわけじゃないよ。そんなのどうだっていいことなんだから」
「それは……俺のこともどうだっていいってことだよな」
「まあな」
「――トモにすればいまさらかもしれないけど、だったら俺は今からでも本当のトモが知りたいよ。どうすれば本当のトモを知ることができる？」
　勇気が智友の顔をくいいるように見つめた。その必死に、まっすぐに見つめてくる瞳に、智友はもうずっと以前に忘れようと無理やり押し込めた胸の痛みを感じた。
　大人になっても変わらずに、一点の曇りもない瞳。そこに消えない傷をつけたら、さすがに勇気も自分から離れていくだろうか。
「……勇気、俺の携帯の番号を教えるよ。そらで言うから今からかけて」
　勇気から視線をはずして智友が言った。だがそれに対して勇気はぴくりとも動かなかった。ただ智友を見つめる視線に不信そうな色が混じる。
「そう言って俺の手を離させるのが目的じゃないのか？」
「違うよ。じゃあ勇気の携帯貸して。俺が自分でかけるから」
「……どうして急に。本当は教えたくないんじゃないのか？」
「教えたくなかったよ。でもいい。こうしてこんなところで突っ立っててもらちが明かないだろ。だからとりあえず連絡先教える。……勇気が知りたくないんなら俺の方はそれでいいけど」
「勿論、知りたいよ」
　勇気は智友から手を離さないまま、自分のズボンのポケットを探って携帯電話を取り出した。そのまま智友に渡す。
　智友は勇気から受け取った電話に、素早く自分の番号を打ち込んだ。たちまち智友の服のポケットから着信音が鳴り出す。
「ほら」
　智友は勇気に携帯電話を返しながら、自分の電話を取り出して勇気に見せた。着信音とともに表示された番号は確かに勇気の番号だった。
　勇気の名前を示す表示はなく、ただの数字の連なりに、勇気は本当に智友の今の携帯電話に自分の番号が登録されていないことを知る。その事実にショックを覚えるけれど、でも智友から今の携帯の番号を教えられたのは確かなようだった。
「これでいいだろ」
　勇気は受け取った携帯電話を操作し、智友への電話を止める。そして智友から手を離し、改めて今の番号を表示させた。全く知らない番号だったが、これが今の智友の連絡先なのだ。
「トモ。ありがとうな。気を変えてくれて」
「礼なんて……後悔するかもしれないぞ」
「トモ……」
「勇気。さっき本当の俺を知りたいって言ったな」
「ああ。話してくれるのか？」
　勇気の言葉に対して、智友はかすかな笑みを浮かべた。今までと一転して愉しげに口の端をあげて。
「……トモ？」
「勇気、俺さ、最近一人寝ばかりでさみしいんだ。だから、今度からは勇気がその肌で俺を慰めてくれよ」
「……え？」
「勇気がセフレになってくれたら気兼ねしなくてちょうどいいしさ。俺も肌を合わせた相手になら口が軽くなるだろうし。勇気にとっても俺のことを知るてっとり早い手段だろ？」
「……セフ……え…？」
　なかば呆然と呟いている勇気の手を、笑みを深めた智友がつかんだ。その指先に一瞬だけ唇を触れさせる。
「――」
「俺の番号、教えただろ。勇気がその気になったら電話して。それ以外の電話は受けつけない。そんなのはいやだって勇気が思ったら、そのときは俺の番号削除して二度とかけてくるなよ」
「…っトモ……」
「勇気の本気を教えて」
　智友の表情を見て、勇気は智友が冗談で言っているわけではないことを知る。智友は本気で、どちらかの選択を迫っているのだ。
「勇気との友達ごっこは実際もううんざりだけど。でも勇気が俺との新しい関係をはじめたいと言うなら勇気のことを受け入れてもいい。――もう一度言うけど、次に勇気が俺に連絡を取るときは、勇気が俺に抱かれるときだよ。俺はここで終わりでもどっちでもいいし、勇気に任せるよ。じゃあな」
　そう言うと、智友は軽く手を上げて勇気に背を向けた。そのまま、勇気を振り返ることなくこの場を後にする。
　智友の姿が完全に見えなくなっても、勇気はしばらくその場に立ち尽くしていた。



　――唐突に、なにを言ってるんだか。
　勇気から離れるためだけに足を動かしながら、智友の口元に自嘲の笑みが浮かんだ。
　自分でもそう思うのだから、さぞかし勇気は驚いたことだろう。初めて聞いたとき、自分の耳を疑ったに違いない。
　勇気の中では全く有り得ない選択だろうと思う。男子しかいない学園に三年間通いながらも、本人の気持ちは勿論、一部の生徒たちの状況にもまったく気づくことなく。恋愛というものは男女間にのみ成立し、それに付随する行為もまた、男女間でしか有り得ないと考えているだろうから。
　男が男を好きになる可能性も、その同性相手に欲情してセックスしたいと思う可能性も、勇気はきっと考えたことがない。ベルリバティ在学中、寮の隣の部屋でときおり自分に向けてなにが行われていたかなんて、身も心も健全な勇気は全く知らないのだ。
　だからきっと勇気の中では二択ではなく、一択のはずだ。
　つまり、これですべてが終わったのだ。ようやくつながりを完全に断ち切ることができる。
　――その肌を貪りたいという思いはもう過去の遺物なのだ。だからわずかな間浮かんだ夢物語を、惜しむこともない。勇気を組み敷いて思うさま抱くだなんて、今の自分の思考がとらわれることではないのだ。
　一瞬だけ唇に触れた指先。それだけが最後に与えられた熱で、なにも始まらなかった恋の終わりとしては、それで十分なのだから。







『勇気、俺さ、最近一人寝ばかりでさみしいんだ。だから、今度からは勇気がその肌で俺を慰めてくれよ』
『勇気がセフレになってくれたら気兼ねしなくてちょうどいいしさ』
『俺の番号、教えただろ。勇気がその気になったら電話して。それ以外の電話は受けつけない』
　智友から告げられた言葉が、勇気の頭の中をぐるぐると回っていた。
　聞いた瞬間は信じられなかったけれど、でも智友は本気なのだ。本気で、自分にその関係を求めている。
　智友のことを知りたいと思った。
　過去のつながりを断ち切って自分から離れていこうとする智友を引き止めたいと思った。
　智友が学園にいるときや、今、なにを考えていたのか聞いて、ちゃんと話し合いたいと思った。それだけ勇気にとって智友は大事な存在なのだ。
　だが智友からすれば、話し合うに足る存在ではないということなのだろうか。ひととき寝てもいいというだけの対象で、もしくはこれで本当に終わりにできる程度の関係で。
　毎日を一所懸命に、充実させて過ごしてきた過去の高校生活が、勇気の中で実をともなわない薄っぺらいものとして崩れていきそうになる。
　このままここで終わりにはできない。けれど、一歩進めるかというと、迷いが生じる。
（――トモっ！　俺はどうすればいいんだよ）
　智友のことを心配している気持ちは本当なのに、その智友にこの身体を。
（――っ）
　想像することさえできないことを、実行できる気はしなかった。
　精神的にはまだまだ子供で、普通の性行為自体まだ経験していなくて。
　智友は最近一人寝が寂しいという言い方をしていた。今の智友にとってはそれが普通のことなのかもしれない。昔の智友からは全く想像がつかないことだけれど。
　勇気のためらう気持ちに紛れて、智友の声が脳裏によみがえる。
『勇気の本気を教えて』
（――トモ……！）
　勇気は無意識にポケットの中に手を入れて、そこにある携帯電話を強く握りしめた。
　数日前指先に触れた智友の唇の熱が、まだそこに燻ぶっているかのように、勇気の気持ちを追い詰めていた。




　勇気と思いがけずに再会した日から十日後、智友の携帯電話は勇気の番号を表示した。
　名前を登録していなくてもずっと忘れられないままの番号。かけてくるのを待っていたわけじゃないけれど、だからこそその番号を見たときには驚かされた。
　だが、すぐに心が冷める。勇気のことだから、もう一度会って話し合いたいとかなんとか、くだらない繰り言を言うためにかけてきたのだと思えた。
「はい。……誰？」
　相手は勇気だと確信しながらも、故意に警戒した固い声で問う。思ったとおり、電話の向こうで一瞬息をのんだ気配が伝わった。
「……トモ。……俺。勇気だけど」
「……ああ。なに？」
「……っ、こ、この前の話……っ」
　勇気の声はかすかに震えていた。ためらいながら、ようやく言葉を押し出しているようだった。
「この前の話……俺……お、ＯＫだから……」
「この前？　なんのこと？」
「だからっ、セ……」
　そこで勇気の声がしばらく途切れた。勇気にも、智友がこの前の話を覚えていてわざと試すために問いかけたのが伝わったのだろう。何度か言葉を発しようとして、ためらっている様子が窺えた。
「……セ、フレの……は、なし…。ＯＫするから…だから、どうすればいい…？」
「馬鹿だな、勇気。あんなの本気にしたんだ？　冗談だよ。じゃあな」
「ト…っ！」
　勇気の返事を待たず、躊躇なく通話を切る。勇気の思考が正常なら、ここまでされればさすがに怒って二度とかけようという気はなくなるだろう。
　――だが、智友にはもうわかっていた。
　すぐに勇気がまたかけてくることを。
　勇気が、自分に囚われるために自ら飛び込んできたことを智友は感じていた。
　間をおかず、再び鳴る電話。
　本気でつながりを切りたいのなら、ここで出なければ話は終わる。けれど智友にはもう、勇気を解放するつもりはなかった。勇気から飛び込んできたのだから。
　しばらく焦らしてから電話に出ると、「トモ……」と、勇気の消沈した声が聞こえた。
「――勇気はそんなに俺に抱かれたいんだ？」
　からかうように問いかけると、数秒の間のあと、勇気の返事が返ってきた。
「……トモなら、いい。トモとの関係をこれで終わらせたくない。俺のことなんかよりも、トモのことが気になるから…」
「ふうん。人身御供みたいな気持ちなんだ？」
「それは違う」
　勇気からは思いがけず強い言葉が返ってきた。智友は意外な心持ちで続く言葉を待った。
「そんなふうには思ってないよ。――俺は、トモに抱かれたいよ」
　先ほどはすぐに答えられなかった言葉を、勇気は智友にはっきりと伝えた。

→