勇気が目を覚ましたとき、智友は服を着ていた。タオルで髪を拭いている背中が目に映る。
「……トモ…」
　呼びかけると、智友が髪を拭いた手をとめて振り向いた。
「…起きたのか」
「今…」
「まだそんなに時間経ってないよ。ちょっとうたた寝してただけだろ。シャワーとタオル、勝手に借りたからな」
「……トモ、帰るのか？」
「用事があるって言っただろ」
「約束は…？　ちゃんと話、してくれるんだろ？」
「今日はもう無理だな。勇気も充分気持ちよかったみたいだし、今日はもういいだろ」
「だめだ…っ」
　勇気は疲れた体を無理やり起こして、智友に訴えた。
「だって約束したじゃないか。俺がトモのセフレになったら話してくれるって」
「そんなはっきり約束した覚えはないけどな」
「トモ…！」
「……」
「だって俺は、もっとトモのことが知りたいんだ。体を合わせてトモに少し近づけたけど、でもそれだけじゃなくて俺はちゃんとトモと向き合いたいんだ。だから、トモっ！」
　勇気の言葉に、智友は勇気から視線をはずし、ため息をついた。
「……勇気、明日は休み？　それとも仕事？」
「明日は日曜日だから休みだけど…」
「じゃあ用事を済ませたらここに戻ってくるよ。それでいいだろ。多分明日の朝になるけど、勇気がそれでいいなら」
「トモ、ありがとう。俺はそれでかまわないよ。だから待ってるから、ちゃんとここに戻ってこいよ。必ずだぞ！」
「……わかったよ。じゃあな」
　智友は持っていたタオルを勇気に投げると、そのまま部屋を出て行った。



　――本当はたいした用事なんてなかった。さっさと勇気から離れるために無理やり作ったようなものだ。人との約束などではなく、ちょっと家に戻れば、すぐに終わる程度のもの。
　勇気の家でどんなことになっても、すぐに帰れるように張っていた予防線。
　実際、先に用事があると言っておいてよかったと、夜道を一人歩きながら智友は思う。
　あんなふうに勇気を抱いて、無我夢中で勇気を求めて。そのあとそのまま勇気のそばにいたらおかしくなりそうだった。
　勇気のまっすぐな瞳にあてられ、手を伸ばせばすぐに触れられる距離にいたら、封じていたはずの想いをぶつけて、変なことを言い出しかねない。
　それを防ぐためには勇気と離れ、夜風にあたって熱を冷ますしかないのだ。
　本当はこのまま家に帰って勇気の言葉など無視してしまうのが一番いいのだが。
　でも、もう。
　勇気に会い、言葉をかわし、ときに身体を求めることもできる――その距離を失いたくないと思う自分も、確かに存在していた。
　一度身体を重ねただけで、深く囚われたのは果たしてどちらだったのか。
「……だから、本当におまえは最悪だっていうんだよ…」
　夜風に紛らすように、智友はぽつりと呟いた。



　智友が一度家に戻り、朝勇気の家を訪れると、勇気は明るい笑顔で智友を迎えた。
「トモ、お帰り。ちゃんと約束、守ってくれたんだな」
　玄関のドアを開けて嬉しそうにそう言った勇気の表情とともに、その格好に智友は驚かされる。
「…っ、おまえ……っ」
　勇気はシャツ一枚だけの姿で出てきたのだ。前日に智友が揶揄したとおりの姿で。
　智友は勇気の真意を探るべく、勇気の顔をまじまじと見つめた。
　智友の視線に気づいた勇気が、しぐさで智友を中に促しながら気まずそうに説明した。
「言っとくけど、ちゃんとはいてるぞ。ちょっと前にシャワー浴びたばかりなんだよ。あと……なんか下半身が落ち着かなくて……ズボンが履けない……」
「――」
「トモのせいだからな。とにかく中に入れよ」
「……そのつもりで待っていたのかと思った」
「違う。たまたまだよ。夕べは汗だけ流すのと……が精一杯で、ほとんど倒れ込んでそのまま寝ちゃったから、さっきもう一度入りなおしたんだよ。……お前放置していったけど、夕べはあの後大変だったんだからなっ」
「なにが大変だったって？」
　智友が後ろから勇気の身体に腕を回してのしかかる。勇気の言ったとおりシャワー後らしく、まだ髪は湿っていた。夕べのように。
　智友の腕は勇気によってすぐにほどかれた。
「…っ、だから、いろいろ片づけとか…足がくがくするし、体重いし…」
「ふーん」
「……他人事みたいな顔するなよ。誰のせいだよ」
「選んだのは勇気だろ」
「……二回もするなんて聞いてない」
「……ぷっ」
　思わず、といったふうに智友が吹き出す。
「笑うなよ！　その分トモにはちゃんと話してもらうからなっ！　でないとフィフティフィフティじゃないし、計算が合わないだろ！」
「計算て…」
「まあ昨日のことはもういいよ。それよりトモ、朝食は？　簡単なものなら今作ってて、俺もちょうど食べるところなんだけど。それとももしかして用事片づけてて全然寝てないとか？」
　リビングについて、勇気が流しの前に立つ。テーブルには勇気の言ったとおり、簡単に朝食の用意がされていた。
　確かに夕べは寝られなくて、ほとんど寝てないし、ましてやあの後なにも口に入れてはいなかったが。
　しかし智友は食欲や睡眠欲を刺激されることはなかった。――それよりも。
　一度肌を重ねて勇気の中でもなにかのつっかえが取れたのか、昔のように遠慮のない言い方をする勇気。学生時代のようないろんな表情がまた自然に見られはじめて。
　そのうえシャツからのぞく足や首筋には、昨夜の情交のあとが色濃く残っていた。
「トモ？」
「…勇気。朝食よりも先にこっち」
　智友は勇気の腕をつかむと、勝手知ったるという感じで、部屋の方に引っ張った。
「え、トモ!?」
　驚く勇気を無視し、勇気の部屋のドアを開けて中に入る。
「ちょっ、ここ俺のうちだぞ。…って…」
　そのままベッドに勇気を放り投げるように押しやった。
「トモっ！！」
　さすがに何を意味するか悟った勇気が声を上げて起きあがる。そのときにはすでに智友は、自分の服に手をかけて脱ぐところだった。
「いいから付き合えよ。そのあとは話でも何でもしてやるから」
「だから約束が違う。回数に合わないだろ。それに夕べだってしたばかりで……トモっ！　ちょっと待てよっ」
「勇気に拒否する権利なんてないだろ。それとも俺、このまま帰ろうか？　勿論ここには二度と来ないけど」
「…っ、トモ、それずるい…っ。あっ…！」
　勇気のシャツのボタンを素早くはずして、前を開く。勇気の肌には最初はつけるつもりのなかった赤いあとがいくつも残っており、封じ込めていた自分の執着の強さを思い出させた。その肌を堪能するように智友は手を滑らし、唇を落とす。
「……っ」
　夕べ智友に教え込まれた快感が、再び勇気の身体を熱くさせようとしていた。




「……トモ」
「……」
「トモ、話」
「ん……」
「トモ、約束だろ。ちゃんと話しろよ」
「……俺、昨日全然寝てなくて眠いんだって」
「さっきだったらそのまま寝かせてやったけど、今はもうだめ。寝る前にちゃんと話してもらうからな。……俺だって、腹減ってんの我慢してんだぞ」
「じゃあ俺寝てるから、勇気食べてこいよ」
　こちらに背を向けてあくまでもそのまま寝ようとする智友に、勇気は身体を起こして智友の上にのしかかった。
「だからだめだって。そんなことしたらますます話す時間なくなるし、食べたら俺も眠くなっちゃうかもしれないだろ。ここできっちり清算してもらうからな」
「……三回分清算しろって？」
　目を開けて勇気を見た智友に、勇気は少し顔を赤くしながら頷いた。
「……そうだよ。俺だけ割に合わないだろ…」
「勇気にも充分いい思いさせたと思うけどな」
「割に合わない！」
「はいはい」
　仕方なさそうに返事をした智友が身体の向きを変える。勇気も智友から身体を離した。そのあと横になることはせず、そのままじっと智友の顔を見つめる。智友の表情の変化を見逃さないために。
「……で、なにが聞きたいって？」
「……トモの本音。……トモはあの頃となにも変わってないとこのまえ言ったけど、でも俺はなにも気づかなかった。俺が鈍くて気づかなかったのはあるだろうけど、でもきっとトモが隠してた部分もあるよな。俺はそれが知りたい。……トモはずっと俺のこと、嫌いだったのか……？」
「……嫌いだったわけじゃないよ」
「でも本心を話すほどの存在じゃないとは思われていたんだよな……」
「そりゃあ、たかが三年間だけのつきあいだしな」
「……俺は一生続く関係だと思っていたよ」
「学生時代の人間関係なんて、卒業したらそれまでに決まってるだろ。俺は最初からそれ以上続ける気はなかったよ。勿論勇気とも」
「――」
　勇気が手をついていたシーツがしわを刻む。
「トモにとって俺はそれくらいどうでもよくて、信用に値する相手じゃなかったんだな」
「そうだな」
「……」
　俯いて黙り込んだ勇気に智友がため息をついた。
「勇気が知りたいって言ったんだろ。これが俺の本音だよ。聞きたくないならやめてもいいけど」
「……三年間、いろんなことがあったよな。いろんなイベントもあったし、トモは陸上部も頑張ってた。俺はすごく楽しかったし、トモも俺の隣で一緒に楽しんでいるとずっと思ってた……」
「まあな。人望あるエース様のおかげで、人に聞かれても困らない程度の学生生活の思い出はできたよ。その点は勇気に感謝だな」
「……ははっ、ベルリバティでの三年間、俺はいったいなにしてたんだろうな。いつでも一生懸命に頑張って学生生活を思いっきり楽しんできたつもりだったけど、俺の中にある大事な思い出が今はなんだか、すごく薄っぺらいものに感じるよ……」
「……違うだろ。勇気にとってはちゃんと本物の思い出だろ」
「でもトモにとっては違うんだろ？」
「……いつも人を巻き込むはた迷惑な存在でもあったけど、勇気のおかげで俺もちゃんとそれなりには楽しかったよ。俺は面倒くさがり屋だからな、楽しくないのに楽しいふりはしないし、他人のためにわざわざ笑顔を作ったこともないよ」
「トモ…。それは、ベルリバティでトモが俺の隣で笑ってたとき、ちゃんとトモも楽しんでいたって思っていいってことだよな？」
　勇気が顔をあげて智友に問いかける。
「ああ」
　それでも勇気の表情は晴れなかった。
「でも俺は三年間でトモになにも残せなかったんだな」
「まあな」
「――」
　勇気が唇を噛む。それを見て智友が、「へこむくらいならやめれば？」と投げかけた。
「やめない。確かに今すごく落ち込んでるけど、でもトモと話をすることはやめないよ。……トモと身体をつなげて前よりトモに近づけた気がする。だから今度はもっとトモのことが知りたいよ。お前のことがもっと知りたいんだ」
「そのためにも、この関係をこれから先も続けるって？」
「勿論！」
「昨日と今日で懲りたんじゃないのか？　今だって体つらいんだろ？」
「それは…そうだけど。でも俺もうやめるなんて絶対に言わないからな。それに、トモが手加減してくれればいいだけの話だし」
「それは無理だな。ま、童貞の勇気がセックスに目覚めたんならそれはそれでいいけど」
「トモ！」
「でも……勇気がこのセフレなんていう普通じゃない関係の先に求めるのは、ごく普通の友情なんだな」
「え？　……トモ？」
「――勇気らしいよ」
「それはどういう…」
「友情に厚い勇気らしいからそう言っただけだろ。それより話とやらはもういいのか？　だったら俺寝るけど」
「だ、だめだってトモ！　まだ聞きたいことはあるんだからなっ。あとは――」
　智友に聞きたいことを懸命にあげていく勇気を見て、智友は本当に勇気らしいと思う。
　濃厚なセックスなんて行為をこれから先何度繰り返しても、勇気が自分に求めているのは普通の友達関係で、本当に自分の片思いであることをつきつけられる。
　ベルリバティを卒業するときだってそうだった。勇気には偽悪的に言ったけれど、三年間、勇気を本当に信用していなかったわけじゃなかった。勇気の隣は明るくて優しくて居心地がよくて。そこで経験したことには本当に楽しかったことだってたくさんある。
　初めから、高校生の間だけのつながりだとは思っていなかったけれど、でも卒業するときに虚しくなってしまったのだ。自分と勇気の気持ちの差に。
　このまま卒業後も友情ごっこを続けてそれでどうなるというのか。勇気に友達としてしか求められていない、勇気を手に入れられないことをずっと思い知らされる。そしていつか、勇気の隣に特別な相手が寄り添うのを見ることになるのだ。
　それくらいなら連絡を絶って、関係も断ち切った方がはるかにましだった。元から自分の人生などつまらないものなのだから、いまさら勇気という存在がなくなったって大したことではないと自分に言い聞かせた。自分にはもともと望んだって得られないものばかりで、どんなことも期待するだけ無駄で。ほんのわずかな時間勇気と触れ合って思い出を作れたけれど、それだってうたかたの幻で。
　勇気とこの先もずっと一緒にいられる、ましてや勇気を手に入れられるなんてことは、夢を見るだけ無駄なのだから。
「……トモっ！　俺の話全然聞いてないだろ!?」
「ん？　ああ、今目を開けたまま意識とんでた」
「……だからっ」
　――それでももう、手を伸ばせば触れられる距離にいることを手放せそうになかった。勇気の側は相変わらず居心地がよくて、勇気の身体は甘くて。そこに勇気の恋愛感情がなくても、確かに今自分は、おそらく誰よりも勇気と近しい人間なのだから。
「……勇気」
　智友は勇気の頬に手を伸ばした。学生時代にだってほとんど触れたことのないその肌を指先で堪能する。
「な、なんだよ」
「俺、やっぱ限界。じゃあおやすみ」
　智友の手がぱたりとシーツの上に落ちた。
「――トモ〜〜〜っ！！　おまえ、自分勝手すぎるだろっ!?　ちょっ、本当に寝るなよっ！！」
　勇気が幾度か智友の身体を揺らすと、再び智友の手が伸びてきて、勇気を腕の中に囲った。
「ゆーき、うるさい。いいからおまえも寝ろって」
「ト、トモっ、離せって！　っだから、本当に寝るなよ、トモっ！」
「――」
「……っおまえ、本当にサイアクっ！！　マイペースなのは昔からだけど、ここまで本性タチ悪いなんて知らなかったからな！　……トモっ！！」
　呼びかけてももう返事はなくて。勇気は学生時代も、深く寝入った智友を起こすのには苦労していたことを思い出す。
「……本当にずるいぞ。人のこと、抱…」
　抱くだけ抱いておいて。
　言葉にして愚痴ろうと思ったが、気恥ずかしさに途中で止まってしまう。いくら事実でもさすがに友達相手にそのまま口にすることはできなかった。
「……」
　智友を起こすことを諦めて気持ちを落ち着かせてみると、いまさらながらに智友とすごく近くて、背中に智友の腕がまわされていることに気づく。智友の寝顔が目の前にあり、息さえかかりそうだった。互いに裸のまま密着していて。
　抱かれているときは当たり前の距離だが、意識がはっきりしているときにはなんとも言えない距離だった。こんなのは友達の距離じゃないと思う。実際もう普通の友達とは言えないが、まるでキスさえできそうなその距離は勇気にいくらかの緊張を強いた。
　そして勇気は、不意に、昨日今日と続けて抱かれていても、智友とキスをしたことが一度もないことに気づいた。体に口づけられたことはたくさんあるが、唇では一度もしていない。
　それはおそらく智友の意思によるものだろうと勇気は思う。身体を繋げていても、そんなのは仮初のもので、単なる欲望のはけ口。
　別にしたいわけではないが――ないはずだが、こんなに近くにいてもやはり智友との心の距離は遠く、一線引かれたままなのだということを実感した。




「……」
　食事のあと、勇気はむっすりと黙ったままコーヒーをすすった。
　その向かいで同じく食事を終えた智友もコーヒーを飲む。食事のはじめには淹れたてだったコーヒーはすっかり冷めていた。
「勇気。今ちゃんと話しただろ」
「……」
「勇気」
「でもトモは起きたとき、そのまま帰るつもりだっただろ。俺が引き止めなかったらさっきの話で終わりにする気だったじゃないか」
「そりゃあ早く帰りたかったからな」
「……」
　――しばらく勇気のベッドで寝ていた智友は、昼をだいぶまわって起きたとき、開口一番に「じゃあ、そろそろ帰るか」と言った。
　勇気はそれを無言の笑顔で受け止めると、着替え終えた智友を強引にリビングの椅子に座らせ、熱くて濃いブラックコーヒーを淹れて智友の前に置いた。
　そして自分も向かいの椅子に座りながら、「中途半端な時間だけど、食事、トモも一緒に食べるだろ」と言ってから、「で、トモ、さっきの続きだけど」と、さらなる笑顔を浮かべて話の続きを促した。
　智友は自分に向けられた勇気の笑顔の裏に、話すまでは絶対に解放しないとの強い意志を読み取った――。
　かくして、遅い昼食を一緒に食べながら、今度は今の智友の生活についての話をした。最初智友は面倒がったが、勇気が質問を重ねると、仕方なさそうな口ぶりで話しはじめた。ベルリバティを卒業してからの生活については勇気が聞いたことにもあっさり答えてくれ、食事をしている間、会話は止まることはなかった。
　だが一通り今の生活についての話を終え、勇気が続けて過去の話に水を向けようとすると、智友は自分の時計をわざとらしく眺めて大きなため息をついた。そして、「もうこんな時間か。勇気のせいで休みが無駄になっただろ」と言ったのだった。
　その途端、智友が話しはじめたことでかろうじて耐えていた勇気の機嫌がおもいきり下がった。智友に勇気を宥めようという気がまったくなく、また悪いと全然思っていないところにさらに腹が立った。勇気からすれば、智友が眠らずにちゃんと話をすればさっさと帰ることができたし、そもそも朝来てすぐに抱こうとしなければそれだけ時間は有効に使えたはずだと思う。一方的にこちらだけ非難されるいわれはないのだ。
　それに、話題を変えたから智友がそんなことを言って話を終わらせたのにも気づいていた。今追求しても智友はきっと話す気はないのだろう――過去のことは。
　だから勇気は今、機嫌が悪いことを隠しもせずコーヒーを飲む。話をしてくれてありがとうなんて今は絶対言いたくなかったし、休日を無駄にしてごめんなんてさらに言うつもりもなかった。ここでなにも言わなくったって、智友はこちらを気にすることなくさっさと帰るのだろうが。
「……今度から先に話をしないとヤらせないからな」
　コーヒーカップを見つめながら勇気が呟くと、途端に智友が笑い出した。
「トモ、俺、本気だからなっ！！」
　カップを勢いよく置いて智友を睨みつけると、智友は口元に笑みをたたえながら、
「勇気がそう思うのは構わないけど、俺は俺の好きにするよ」
と言った。
「――」
　笑みを浮かべていても、智友の表情や声に、いやならここで終わりにしてもいいけどというニュアンスが含まれていた。それ以上何も言えずに、勇気は目を伏せる。
　――目を伏せた勇気を眺めながら、智友は、もうこの関係を終わらせたくないのは自分も同じなのに、ついつい言葉で勇気をいじめてしまうのはなんなんだろうと、今の言動を振り返って考えた。やはり好きな子をいじめたくなる心理なのかと思う。学生時代には同じ好きでもそんな気持ちになったことはないのに、今は無性にいじめたい気持ちになるときがある。そして学生時代には見ることがなかった表情をもっともっと引き出したい。
　智友は椅子から立ち上がると、手を伸ばして勇気の顎に手をかけ、勇気の顔を上げさせた。
「……勇気。俺はこれからも好きにするし、お前とこの関係を続けていく以上ちゃんとセフレとして勇気に役に立ってもらうから」
　智友の指が勇気の唇に移り、指先でゆっくりとなぞりはじめた。
「勇気の体作り変えてお前を俺のいいように仕込むけど」
「――」
「人として……男として、引き返せないところまでいきたくなかったらこの先は……」
「……っ、だから、トモの好きにすればいいだろっ」
　勇気は顔をそむけて智友の指から離れた。
「俺だってトモに教えられたことはちゃんと覚えるし、引き返す引き返さないなんて、そんなの……っ」
　男に抱かれてあれだけ感じてしまっている時点でもう戻れるはずないと勇気は思う。
　‘男友達’に指で唇をなぞられて意識が持っていかれてしまっている時点で。
「その代わりもう関係を終わらせないし、話だって今のことだけじゃない、学生時代のことだってもっと昔のことだってたくさん話してもらうからな！」
「……勇気は――」
「……トモ？」
「……それは、昔の友達に一方的に切られたくないという意地？　勇気のプライドが傷つく？」
「違う！　俺はっ」
　勇気はテーブルに手を叩きつけて反射的に立ち上がった。
「……自己満足のため？」
「っ……トモ……」
　もっと言葉を連ねたかった勇気の勢いが、智友の言葉によって弱まる。
　一瞬泣きそうな表情さえ見せた勇気に、智友は再び手を伸ばした。手のひら全体で勇気の頬に触れ、指先が勇気の耳や髪に触れる。
　手を緩く滑らせても、勇気は目をそらさなかった。
　智友も黙って勇気を見つめた。
「――」
　互いに言葉はなかった。
　二人の距離がテーブル越しに自然に近づき、やがて…勇気が目を閉じた。
　その意味するところを悟り驚いた智友が、自分の指に一瞬力を込め、そして――勇気から離れた。
「……勇気ってほんと、短絡的だよな」
「！」
　勇気がはっと目を開けたときには、智友は勇気から手を離し、口元に歪んだ笑みを浮かべていた。
「なに期待してたんだか。セックスは気持ちいいからするけど、ただのセフレ相手に俺はそこまでしたくないよ。勇気とキスまでする必要ないだろ」
「……っ」
「それとも勇気はしてほしかったわけ？」
　故意に顔を近づけてきた智友の身体を、勇気は両手で突き放して顔をそむけた。
「違う、トモがっ」
「…俺が？」
「キ……するのかと思って。トモがしたいことを俺が拒否したらこの関係を終わりにされるから、それでっ！」
「ああ、そういうこと。だよな。なら安心した」
「――」
「それで、本当に次も会うわけ？」
「勿論っ」
「そ。じゃあまた連絡する」
　そう言うと、智友はそのまま勇気を振り返ることなく部屋を出て行った。



　智友が出て行ったあとで、勇気は力が抜けたように椅子に腰を下ろした。だがバランスを崩し、そのまま椅子ごと床に倒れ込む。
　それでも勇気はさほど痛みを感じなかった。今目に映っているものが、どこか遠いもののように感じられた。
　――智友がキスをしないのには気づいていた。
　だから自分も智友の気持ちはよくわかってて、別にしたいと思っていたわけじゃなかった。
　……そのはずなのに。
『勇気ってほんと、短絡的だよな』
　嘲るように笑った智友の声が頭の中で甦る。
　あの雰囲気にのまれただけ、なんだろうか。智友が自分を見つめていて、智友の手が自分に触れて。
　だから、そのまま引き寄せられて、智友ともっと距離を近づけて……唇に、されるかもしれないと思った。そう、雰囲気的にそうかもしれないと感じてなんとなく目をつぶっただけで、自分からしたいと思ったわけではなかった。
「……だよな。そのはず、だよな…。なんとなく流されちゃっただけで、別に俺は……」
　勇気は床に座り込んだまま、ぼんやりと考える。
　さっきは智友の指先で唇をなぞられた。
　もう馴染みになってしまった、自分を見つめる智友の冷めた瞳。
　だけど声は、学生時代に戻ったかのように何度も何気なく「勇気」って呼んでくれて。やりとりの中でほんの少しだけ、笑顔を見せてくれるときもあって。
　昨日知ったばかりの智友の体温。汗の匂い。
　智友の指に体の奥まで触れられて、甘く溶かされて、智友の熱を幾度も受け止めて。
　雰囲気に流されただけだと口にしていても、今頭の中に浮かんでくるのは智友のことばかりで。
　抱かれたときだってこんなじゃなかったのに、なぜ今になって。
　単に身体に引きずられているのだろうか。自分にとっては初めての経験で、ここのところずっと智友のことばかり考えていたから。
　そのせいであって、別に特別な意識を向けているわけじゃ――。
　混乱している勇気の中で、不意に、冷水を浴びせられたかのように気づいたことがあった。
　自分の心がつかめていない。けれど自分の気持ちがどうであったとしても、智友には無関係なことなのだ。セフレとしてしか求められてなくて、今は友達としてだって必要とされていない。
　むしろ、智友が本気で切ろうとしたら簡単に切れる脆いつながりの中で、智友に自分の心を知られて重い、面倒くさいと思われたら、すぐに断ち切られるのだ――。
「……は…」
　そのことに気づいた勇気の口元に、意識していない自嘲の笑みがこぼれた。
　身体に引きずられているだけであっても、本当に意識しはじめているのだとしても。
　そんなものはきっと、智友には鬱陶しいだけで。
「……トモ、もうわかんないよ俺…っ！」
　自分にとって智友の存在が特別で、とても大事なのは変わらないけれど。
　意地やプライドを守るために智友とつながりを持ち続けたいわけじゃない。
　智友のことを知りたいと思うことが、独りよがりの自己満足のためだろうと言われたら何も言えないけど。
　ただわかるのは、次に智友に会うとき、自分の意識が変わっているだろうということだった。智友の視線を、智友の声を、智友の手を、普通に受け止めて平然としていられる自信がない。
　――でも自分がこんなことを考えているだなんて、智友には絶対に気づかれちゃいけないのだ。

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