翌日、昼前に紹規が馬車でやってきた。 「紹規さん、すみません。またお手数をおかけします」 「いやいや、気にしないでください。いつもお世話になっていますからこれくらいなんてことないですよ」 「いえ、いつもお世話になっているのはこちらのほうです。本当にありがとうございます」 孔明は紹規に礼を言った。本来今日は街から村に帰る紹規だが、青年を送るためにもう一度街まで行ってくれるというのだ。孔明としてはやはり感謝の気持ちがあふれた。 「で、もう体のほうは大丈夫なのか？」 紹規が青年に声をかけると、青年――亮は笑顔を見せた。 「はいおかげさまで。まだ小さなけがはありますが、もう大丈夫です。今日は本当にボクのためにすみません。助かります」 「いやいや元気になってよかったなあ。じゃ、乗り心地はよくないが、乗ってくれ」 「はい」 亮は頷いたあと、孔明を振り返った。 「それじゃあボクは帰ります。今回のことでは本当にお世話になりました」 「そんな、私は大したことはしていませんから。お気になさらないでください。倒れている方を見つけたら、私は誰にでも同様のことをしていたはずです」 「…ボクだけが特別ではないということですね」 「勿論。そのとおりです」 孔明の返事に亮はなにか言いたげな顔を見せたが、結局そのことにはなにも触れず笑みを見せた。 「それでは行きます」 「はい。お気をつけて。そしてお元気で、どうかお幸せに」 「……さようなら」 亮が手を差し出す。孔明は戸惑ったが、軽くその手に自分の手を重ねた。孔明の心配をよそに、ほんの少し揺らしただけで、すぐにその手は離れた。そして亮は孔明に背を向けて馬車に向かった。 孔明はほっと息をつく。昨夜は一つの庵の中とはいえ、距離を置いて寝間を用意したせいか、もう寝るという段になって以降亮が話しかけてくることはなかった。不自然な動きもなく、孔明はそのまま眠りについた。この繰り返しの生の中で精神は敏感になり、なにかが起きればすぐに目覚めるところだが、孔明の眠りを妨げることはなにも起きなかった。 今朝は前日の言動が嘘のように亮は普通に落ち着いていて、孔明は触れられることも思いがけない言葉を向けられることもなく、二人で簡単な食事をとった。そのあと亮は孔明の持っている書を読みたいと言い出し、紹規が訪れるまで一人で黙々と書を読み続けていた。その様子はかっての師を思い起こさせるもので、孔明は亮の邪魔をすることなく過ごした。 昨夜から今朝までの間に何事かがあったわけではないが、一晩経ったら意識もすっきりし、こんなさびれた庵にいる女に構うなど馬鹿馬鹿しいと思い直したのかもしれないと孔明は安堵した。前日の言動のほうが奇妙なだけで、この状態が普通なのだ。青年は自分の世界に帰り、接点は二度とない。どういう現象かはわからないが、無事な姿を見られただけでもこれから安心して過ごせるだろう。 「じゃあ、先生、また」 「はい。それではよろしくお願いします」 孔明は紹規に頭を下げた。そのあとで、小声で一つの頼み事をする。 「紹規さんのお時間を少しいただくことになるのですが……できたらお願いします」 「わかりました。そういうことでしたら請け負いますよ」 紹規はすぐに頷いた。それから手を振り、自分も馬車に向かう。 ふと馬車に目を向けると、馬車に乗った亮と孔明の視線が絡んだ。亮が孔明に向けて再び笑みを見せる。そして声には出さず、その唇が動いた。 ゆっくり、一語一語をはっきり伝えるように。好きです、と。 「――」 孔明はすぐに顔を背けた。 紹規の掛け声が響き、馬がいななく。そして馬車がゆっくりと動き出した。 もう一度顔を上げると、亮は孔明に向けてにこやかに手を振っていた。孔明はそれを複雑な気持ちで見送る。声に出さないメッセージから考えると、やはり亮の気持ちは前日と変わっていないように思えた。ただ今朝はなんの気まぐれか、なにをする気もなく過ごしただけのようだ。孔明にはそれが、また次があるからという亮の意識の表れのような気がして落ち着かなかった。 このまま、二度と会わなければいい。そう願いながら、孔明は亮の乗っている馬車を見送った。 「……あれ？ 紹規さん。ここって、さっきも通りましたよね」 孔明の庵を離れてからずっと周りの景色を見ていた亮が、そのことに気づいて声をあげた。 紹規はそれに対してのんびりと答える。 「ああ。先生がな、あんたのためにって俺に言ったんだよ。なんでもここの風景がとても気に入ったんだって？ だからできるだけこの山のいろんなところを見せてあげられるように遠回りしてほしいとな。いやあ、確かにここはいいところだからな〜。気に入ってもらって俺も嬉しいよ」 「……出発前に話していたのはそのことなんですね」 「そうそう。でもあんた、よく同じところだって気づいたなあ。このあたりは似たような景色も多いから、初めてきた人間ならまずわからんだろうよ。下手したら近くの村の人間でも迷子になる場所だからなあ」 「……そうですか。まあ、ボクは道を覚えるのが得意なんですよ。無我夢中で逃げているときならともかく、通常なら一度通れば覚えますよ。――そっちがそのつもりでも、ボクは完全に覚えてみせますよ」 「あー？ なんか言ったか？」 「いえ、こっちの話です」 「それにしてもこれからいろいろ大変だなあ。心配させてしまった人も多いだろうし、やることも多いだろう」 「そうですね。義理を返さないといけない人もいますからね。それに身軽に動き出すためにはいろいろ片付けなければいけないことも多いですしね。残念ながらしばらくはそれにかかりきりで忙しくなりそうですよ」 いくら身軽な一人暮らしとはいえ、簡単に投げ出せないこともある。この二ヶ月でそういうのを作ってしまった。まずはそのあたりの整理が必要だった。 それでもちゃんと片づけたら、そのときには。 相手は、二度と会わないことを願っているのだろうが。 （簡単に諦められるのなら、初めから気持ちを伝えたりしない。本当に、どうしようもなく惹かれるからこそ……） あの庵に続いている道を覚えながら、青年は心の中で呟く。 自分でも不思議なほど、初めて会ったときから気持ちが止まらなかった。 ただの甘い恋ではない。もっと体の芯から欲してやまない、身を焦がすほどの想い。 （――花……） その名を思うだけで、さらに愛しい気持ちが増した。 了 |