「遠藤。今は珍しく一人なんだな」 休み時間、和希が自分の席に座っていると、後ろから声をかけられた。振り向くとよく自分と啓太のことを茶化してくるクラスメートだった。数日前も二人で登校したときにからかわれたことを思い出す。 「ま〜た啓太と俺の話か？」 「まあな」 いつものようにふざけ半分で話しかけてきたと思って軽く聞き返した和希に、そのクラスメートは笑み一つ浮かべずに答えた。それから和希の隣の席にやってきてそこに腰を下ろす。 「遠藤、最近ほんとに伊藤と一緒にいることが多いよな」 「そうか？」 「そうだよ。いつも二人でいるところばかり見てる気がする。まあ、おまえらがよく一緒にいるというか……伊藤が遠藤以外の人間といるところを見かけなくなったよな」 「――そうかな？」 「ほら、伊藤って二年生や三年生とも仲がいいだろ。だから遠藤だけでなく、他の人間と一緒にいるところもよく見かけてたんだけどな。でも最近は伊藤が他の誰かと話しているところを見なくなったよな。クラスメートの俺たちともろくに話してないし。遠藤はそうは思わないか？」 和希に問いを向けながらも、そのクラスメートは和希の返事を待つことはなかった。机に両ひじをつき、ため息をつく。 「まあな。人間誰しも、人とあんまり話したくないときだってあるだろうし、伊藤は今はそういうときなのかもしれないけどさ。今までが屈託がないっていうか、誰とでも平気でつきあってたようだから、これまでと少し違うだけでものすごい違和感に感じちゃってるだけかもしんないけど。まあ一時的なものならそれはそれでいいし」 「……」 「ただな。俺はそう思ってるんだけど、最近伊藤のことよく思ってないやつらがいるみたいだぜ。要するに付き合いが悪いとか人のこと無視してるとか些細なことばかりなんだけど、それでも――」 「和希、お待たせ」 和希の席から少し離れた場所から啓太の声が聞こえた。息を切らせながら和希の席に近づいてくる。 「ノート、やっぱり机の中に入れたままだったよ。でもすぐ見つかったけどな」 教室移動のときに忘れていたノートを抱え、啓太は和希に笑いかけた。和希の隣にいるクラスメートの存在には気づかず、その目の前を素通りする。 「啓太…」 「……じゃあな、遠藤」 肩をすくめて苦笑したクラスメートが、和希に向けてひらひらと手を振ってその場を離れた。 「このノート、明日提出だったよな。今日のうちにないことに気づいてよかったよ」 「……啓太、あのさ…」 「なに？ どうかしたのか和希」 「いや……」 今の話を啓太にどう伝えるべきか、そもそも啓太に話すべきなのか和希の中で迷いが生じる。 まっすぐに和希を見つめてくる啓太の瞳に、ここで自分がなにか言ったら、今あるものが壊れてしまいそうな気がした。 別に啓太に話すことではない――和希がそう判断したとき、廊下からにぎやかな声が聞こえてきた。 「啓太！ よかった、教室にいたんやな！ 用があって啓太のこと探していたんや」 「俊介。どうかしたのか？」 滝の言葉に答えたのは和希で、呼びかけられた当の啓太は足を止めて振り返っただけだった。滝はそんな啓太にかまわずずかずか教室に入ってくると、啓太の両肩をつかんだ。 「啓太、お願いや。今日の放課後ちょっと時間取れへんか。啓太に手伝ってもらいたいことがあるんや。急ぎの仕事なんやけど、俺一人じゃどうしても無理なんや。な、頼むで啓太」 「俊介…」 「今回はちょっと義理人情かかっててな、断れない仕事なんや。啓太によく声かけてほんま悪いと思うとる。でも今回はどうしても啓太に頼みたいんや」 両肩をつかんで体をゆすってくる滝に、啓太は困惑した表情を見せた。そのあとで和希の方をちらりと見て、また視線を戻す。 「な、啓太、頼むわ！」 「……ごめん、俊介。でも俺放課後は、和希と約束しているから」 「――」 「啓太〜」 「その約束は今日しかだめなものだし、俺は手伝えない。悪いけど他の人を探して」 「どうしても、どうしてもだめなんか啓太？」 「うん、ごめん俊介。今日は、だめなんだ」 「……そうか。なら、仕方ないな。ほな、俺帰るわ。突然うるさしゅうして悪かったな」 目に見えるほどがっくりと肩を落とし、滝が啓太に背を向ける。 「俊介！」 和希の呼びかけに、滝は後ろを振り向かずに軽く手をあげただけだった。 「――啓太、ちょっと」 滝の突然の出現で注目を浴びていた教室から、和希は強引に啓太を廊下に連れ出した。 「和希？」 「啓太。俺たち、今日は約束なんかしてなかっただろ。なんであんなことを言ったんだ？」 声をひそめて啓太に聞く。 啓太は和希の追求に目を伏せたが、すぐに顔を上げて答えた。 「だって俺が和希と一緒にいたかったんだ。放課後も和希と離れたくなかったから」 「わざわざ、嘘ついてまで？」 「でも俺は和希と放課後一緒にいたいと思って、今日は本当にそうするつもりだったよ。だから俊介の手伝いができないのは事実だろ。いろいろ説明するより約束があるって言った方が話が早いし、俊介にも期待させなくてすむだろ。それに俊介の仕事の手伝いなんて、俺にしかできないことじゃないしな」 「でも俊介は啓太に手伝ってほしくて、啓太を頼ってきたんだぞ」 「俺に声をかけるのが俊介にとって一番都合がよかっただけで、どうしても俺じゃなきゃいけないわけじゃないよ」 「啓太……」 和希は目の前にいる啓太の顔を、その全身を改めて見つめ直した。 ここにいるのは間違いなく伊藤啓太という一人の人間。 だが。 「それより本当に放課後どこか行こう。和希の予定が空いているなら、また今日も街へ……和希？」 「……」 黙りこんだ和希の表情に気づいたあと、啓太は和希の胸に自分の頭を預けた。 「――俺が嘘をついたことがそんなにひっかかる？ 俊介の頼みを断ったことが…。でも俺にとっては誰よりも和希が一番なんだ。和希と一緒にいたかったんだ。他の人のことより俺にとっては和希のことが一番大事で、俺が和希と離れたくなかったんだ。できる限り和希のそばにいたい……」 啓太が和希の背中に腕を回す。抱きつかれて、その腕を和希は心地いいと思う。自分の胸に頬をすり寄せてくる啓太にいとしさが増す。 「啓太…。俺だって同じ気持ちだよ。俺にとっては啓太が一番で、俺だって啓太とずっと一緒にいたい。他人のことなんてどうでもいい。啓太を離したくない」 「よかった。すごく嬉しいよ、和希。――俺は、本当に和希が好きだよ。きっともう和希がいないと生きていけないくらい、和希だけを求めてる。和希のことを考えれば考えるほど、どれだけ和希のことが好きなのか自覚するよ」 「ありがとう、啓太。でも……」 今の啓太に対して嬉しい気持ちは確かにある。ここまで自分を優先して、自分のことだけ考えてくれる啓太。 自分だけを見つめてくれる啓太にこのまますべてを忘れて溺れてしまいたい気持ちもある。 けれど。 どこかから制止の声がかかる。和希はそれをはっきりと感じた。 ――この啓太は、違う。 もう目をつむって見ない振りはできなかった。 「…でも？ なにかあるのか和希？」 抱きついたまま自分を見上げてきた啓太の頬を、和希は優しく撫でた。 数日前に見た夢。 あれはまぎれもなく自分の願望だったのだ。 あのときなんて答えたのか今も思い出せてはいない。けれど、和希には確信があった。 あのとき自分が望んでしまったもの。弱い自分が、なにも考えずにただ願ってしまったものは――。 「もういいんだ、啓太」 「和希？」 「もうわかったから。ごめんな啓太、俺が弱くて。啓太が好きすぎて俺だけの啓太でいてほしくて馬鹿なことを考えた。啓太らしさを失わせてまで、俺が望むことじゃなかったんだ」 「和希、なに言って…？」 戸惑いを浮かべた啓太の顔を、和希は目をそらすことなくじっと見つめる。和希の脳裏にひらめくものがあった。 「……啓太、学生会室に最近行ったのはいつだ？」 「え？ 一週間くらい前だと思うけど、なんで…」 「じゃあ、会計室には？」 「確か、四日ぐらい前…」 「わかった。ありがとう啓太」 「和希…？ どうしたんだよ、それがどうかしたのか？」 「――」 和希は無言のまま啓太を抱きしめた。心の中にまだ弱さがある。 ここでなにも気づかなかったことにすれば、まだ夢の中でたゆたっていられる。でもここにいるのは啓太であって啓太でないから。 なにが起こっているのか詳しいことはわからなかったが、もし今の状況が啓太にとってよくないことであったら、このまま放ってはおけなかった。自分のつまらないわがままで、啓太に無理を強いることはできない。 和希は啓太の体を強い力で引き離すと、そのまま啓太から離れた。 「和希!?」 「ごめん啓太。俺、急ぎの仕事を思い出したんだ。啓太はここで待っていてくれよ。じゃあな」 啓太に向けてそう言うと、和希は身を翻してこの場から駆け去った。 ――啓太一人がしたことじゃない。 和希にはそんな予感があった。 ここ数日で変わった啓太。でもそれは啓太が一人だけで変わったわけではないような気がした。 また、和希が見た夢が現実の啓太に実際に影響を及ぼしたとも思わなかった。 そこにはきっと誰かが関わっている。そしてその誰かとは、自分たちの関係を、自分のことをよく知る誰かだと思えた。 可能性がある人間のうち、最近会っている人物――和希は会計室までたどり着くと、ドアを乱暴にノックした。 「遠藤です。失礼します」 返事を待たずにドアを開ける。 そこには優雅にソファに腰掛けている西園寺と、そのそばに立つ七条の姿があった。 「おや。こんにちは遠藤くん。こちらの返事を待たずに入ってくるなんて、いつもの遠藤くんらしくないですね」 「騒々しい。なにか急ぎの用か」 こちらに微笑みを向けてきた七条と眉をひそめた西園寺の言葉を無視し、和希はドアを閉めるとすぐさま用件を口にした。 「最近、啓太の様子がおかしい。それについて二人ともなにか知らないか」 「伊藤くんが、ですか？ 様子がおかしいとはどんなふうにおかしいんですか？」 「それは…」 「啓太にはここ数日会っていない。突然やってきて大上段に聞かれても、最近の啓太の様子はわからないな」 「確かにそうですね。僕もここしばらく伊藤くんには会っていませんよ」 「それがおかしいとは思いませんか、西園寺さん。今まで啓太は自分からもよくここに顔を出していたはずです。それなのにここ数日会っていないというのは…」 「そうは言ってもたかが三日かそこらだ。半月も会っていないわけではない。同じ学年でもない、寮の部屋が近いわけでもない。たまにはそれぐらい顔を合わせないときもあるだろう」 「ですが…」 「それに」 西園寺はそこで一度言葉を切ると、和希の顔を見て笑みを浮かべた。 「啓太がここに顔を出さないということは、その分遠藤が啓太を独り占めしているということだろう。遠藤にすれば嬉しいんじゃないのか？」 「西園寺さん…」 「伊藤くんとここにくるたびにどこか釈然としない気持ちを持っているようでしたからね。遠藤くんにすれば、今の状況は願ったりかなったりの状況ではないんですか？」 西園寺と七条にそう言われ、和希は一瞬言葉を詰まらせる。 確かに啓太を独占できて嬉しい気持ちには覚えがある。――けれど。 「お二人が言うように、確かに俺が啓太を独り占めできたら勿論嬉しいですよ。啓太が俺以外の誰も見なくなって、誰とも話さなくなって、本当に俺だけの啓太だったら…そう思うこともあります。でも、やっぱりそういうのは不自然なんです。そんなのは本当の啓太じゃない。俺しか見ない、俺のことしか考えない啓太なんて、それは本来の啓太を歪ませているだけにしかすぎない」 そこまで言ったあと、和希は西園寺と七条の顔を順番に見やった。そこに浮かぶ楽しげな笑みに、和希は確信する。 やはり、この二人はなにかを知っている。 「西園寺さん、七条さん。啓太になにが起きたのか、啓太がなぜ変わったのか。このからくりを教えてください」 |
