（和希、ごめんっ） 　中庭を出た啓太は心の中で和希に謝りながら走っていた。 　なにに対して謝罪しているのかは自分でもよくわからないまま、ただ和希に会いたい一身で来た道を引き返す。 　これから寮に戻って、和希の部屋に行って。 　もしかするともう食堂にいるかもしれないし、下手するとどこかですれ違ってしまうかもしれない。 　脳裏に寮のビジョンを思い浮かべながら、啓太はもどかしい足よりも先に心で和希の姿を追い求めた。 　前方に校門が見えたときも、啓太の目は校門だときちんと認識していなかった。そこはただの通過点であり、そこを出たら右に曲がってゆるやかな坂道を下るというその先の映像しか浮かばない。このときの啓太には途中で見知った人間と会っても気づかなかったかもしれないほどの勢いがあった。 　ただ、その人以外の姿は。視界に入らない――存在しないも同然で。 「･･････啓太っ」 「･･････っ！」 　だから校門を通り過ぎたときに背後でその声が聞こえたとき、啓太は反射的に足を止めていた。 　荒い息を吐きながら振り向くと、校門の脇、ちょうど啓太からは死角になっていた位置に制服姿の和希が立っていた。 「･･･和、希･･･」 「啓太･･･」 　和希は啓太の顔を心配げにのぞいてきた。 　いきなり校門から飛び出してきた啓太になにごとが起こったのか･･･そんな表情を浮かべていた。 「啓太、そんなに急いでなにかあったのか？」 「なにかって･･･」 「慌てて戻ってくるなんて尋常じゃないだろ？　あ、忘れ物したとか、そういうんだったらいいんだけどさ」 「･･･忘れ物といえば忘れ物かもしれないな」 　口を小さく動かして啓太が呟いた。そう、それはとても大きな忘れ物。 　啓太は改めて和希を見つめた。和希に会えた喜びで、我慢しないとそのまま抱きつきたくなってしまう。 　さっき聞いた西園寺の話もあるし、今もまたなにより自分の身を案じてくれた優しい和希に対してますます想いが募った。 　けれど、今はまだ抱きつくときじゃないのだ。それは、自分に対しての罰だから。 「和希っ！」 「えっ？　なんだよ啓太。急に大声なんか出して」 「俺、和希に対して怒ってるんだからなっ！」 「怒ってる？　どうして･･･」 「和希、身近なところで恋人を見つければ手っ取り早くて楽だって昨日言っただろ！　それに卒業すれば学園でのことなんかあっさり忘れて普通に女の子を探すっていうのも言ったよな！」 「･･･あれか･･･。で、なんであの話で啓太が怒るんだよ。確か啓太、あんとき笑っていたよな？」 　昨日のことを思い返して和希が言うと、啓太はその和希を睨みつけた。 「本当はあのときも俺すごく怒ってたんだよ！　すごくショックだったしっ！　どうせ俺は和希にとって手っ取り早くて楽な相手だよ。いつだってどこだってできるしな。そうして在学中はさんざん俺のこと利用しといて、卒業したらあっさり捨てて和希も普通に女の子見つけるんだろ!?」 「ちょ、ちょっと待てよ、啓太！　あれは一般論を言っただけだろ!?　俺は別に啓太と俺のことなんかこれっぽっちも言ってないって！」 　啓太が怒っている理由を知り、和希はたちまち慌てた。本当にあの言葉に他意はなく、ごくごく一般的な話のつもりだったのだ。自分と啓太の話は別問題であり、そんなふうに考えたことは一度もなかった。むしろ啓太のほうこそ笑顔で自分にとってきついことをあっさりと言ってきたから、それで昨夜からずっと落ち込みっぱなしだったというのに。まさかそのことで啓太のほうが怒っているとはまったく考えもしなかった。 「でも俺はすごくショックだったんだよ！　和希からあんなことを言われて！」 「啓太･･･」 　啓太の顔を見つめて、和希が溜息をついた。 　それから「ごめん」と小さく呟いた。 「――っ」 「本当にあれは啓太と俺のことを言ったつもりはなかったんだ。あのときはベルリバティの話をしていたし、俺の立場からしてちょっとした言い訳を口にしたというか･･･。まさか学園全体がその･･･本当に同性にしか興味をもてない人間ばかりを集めた場所だとは認めたくなかったし、まあ一時的な環境がそうさせているだけだろうと･･･。でも、そのことで啓太を傷つけてしまったんなら謝るよ。ごめんな、啓太。俺が不用意な発言をしたせいで啓太にいやな思いをさせたんだな。しかも啓太に言われるまでそのことに全然気づかなかった。･･･本当にごめん」 　和希に悄然と謝られて、啓太はもう我慢することなどできなかった。 　あふれる気持ちのまま、和希に体当たりをするようにして勢いよく抱きついた。 「け、啓太？」 「･･････和希のばか･･･」 「そう言うなよ。これでも本当に反省しているんだからさ」 「違う。そうじゃない」 　たまらなかった。 　本当に和希に非があるわけじゃないのに、それでもすんなりと謝ってしまえる大人の和希が。 　自分は悪くないと押し通すこともなく、適当な言葉でごまかすわけでもなく、ちゃんと自分に向き合って真剣な言葉をくれる和希にたまらないほどの想いがあふれてくる。 　啓太は腕に力を込めて和希にしがみついた。そうして全身で大好きな相手の存在を感じ取りたかった。 「和希が反省することなんかないだろ？　和希が謝ることなんかない。俺が勝手に勘違いしただけなんだ。和希の気持ちをよく考えればそんなことぐらいわかりそうなものなのに、俺が一人で勘違いして、そうして和希の気持ちを疑ったんだ。和希こそなんでそんなこと考えるんだって、俺のこと怒ったっていいのに」 「啓太を傷つけたのは事実なんだろ？　だったらやっぱり俺が悪いんだよ」 　和希の手が伸びてきて、抱きついている啓太の頭を優しく撫でた。 　耳から聞こえてくる和希の声は本当に優しくて。 　啓太はそれだけで泣きそうになってしまった。 　変に勘違いして暴走せずにちゃんと和希の目を見ていれば。和希の気持ちなんてこんなに簡単に、こんなに強く伝わってくるのに。 「和希、ごめん。和希の気持ちを疑ってごめん。俺のつまらない悩みなんかで和希のこと避けててごめんっ！」 　啓太がそう言うと、その場に数秒間奇妙な沈黙が下りた。 「･･･和希？」 「･･････え？　俺、啓太に避けられてた？」 「･･････もしかして和希、気づいてなかった？」 「･･････」 「･･････」 　二人でしばらく見つめあったあと、同時に吹き出した。抱き合ったままひとしきり二人で笑いあう。 「なんだ和希、全然気がついてなかったんだ。本当に俺一人で暴走していただけなんだな」 「いや･･･ただ昨日の夜と今朝会わなかっただけだろ。それで避けられていたなんて気づかないだろ、普通」 「そうかな？　和希が俺の部屋に来ていたら、なにも言ってないのに朝早くからいないなんておかしいとか考えるんじゃないか？」 「あー･･･まあ、な･･･」 　啓太の問いに、和希は視線をそらして曖昧に答えた。 　本当は自分の方こそ啓太を避けていたから、啓太が朝早く寮を出ていたことにも気づかなかった･･･とは勿論言えなかった。昨日の啓太の言葉でどっぷりと落ち込み、和希自身が昨夜も今朝も啓太に会おうとしなかったのだ。あの言葉を口にした啓太に罪があるわけではないからこそ、啓太に会って普通に接することが出来そうになかったから。だから今朝も啓太の部屋に寄らずに、先に学園に来たのだ。結果的には啓太のほうが先に来ていたわけだが。 　今も別に吹っ切れたわけではないが、突然飛び出してきた啓太のことが心配で、落ち込んでいた理由など薄れてしまった。 　なによりこうして本物の啓太に触れていたら、先のことなど今はどうでもいいように思えた。 「で、啓太。いつまでこうしているつもりだ？　そりゃあ俺は嬉しいけどな」 　話題をかえるためもあって、和希が啓太に状況を認識させた。いまだに啓太は和希に抱きついたままなのだ。 　それを聞いて啓太は慌てて離れる･･･と、和希は予想したのだが。 「･･･もう少し。だって俺、今は和希と離れたくないから･･･」 　和希の肩に頭を預けて、啓太が背中に回した腕に力をこめた。 「･･･でも向こうから人が来るぞ」 「えっ!?」 　それを聞いて啓太は慌てて和希から腕を離した。離れがたいけど、さすがに人が来るのなら抱き合ってはいられない。寮のある方向を見ると、確かにこちらに向かってくる人の姿が見えた。 「――啓太、こっちだ」 「和希!?」 　和希に急に腕をとられ、啓太は力強く引っ張られた。 　校門から学園の敷地内に入り、すぐそばの木の影に引っ張り込まれる。 　毎日通っている道だが、校門のそばに人が隠れてもわからない木々や植え込みがあることには気づかなかった。啓太は校門のほうを見ている、自分の間近にある和希の顔をしみじみと見つめた。 　校門のほうから足音が聞こえ、名前も知らない生徒が植え込みの向こうを通り過ぎていく。 　その生徒の足音が遠ざかってから、啓太はほっとして口を開いた。 「校門のすぐ近くにこんな場所があるんだな。今まで全然気がつかなかったよ。相変らず和希は学園のこと詳しい･･･」 　言葉を続けようとした啓太の視界が暗くなった。いつの間にか和希の手が啓太の腰に回っていて。 　啓太が慌てて目を閉じると、すぐに和希の唇が啓太のそれに重なってきた。 「ん･･･っ」 　啓太は自分の両腕を和希の首に回した。さきほど中断させられた分を取り戻すかのように腕に力を込める。 　昨夜あんなふうに別れてから和希の顔をずっと見ていなければ、当然キスもかわしていなかった。ほぼ一日ぶりのくちづけ。 　たったの一日なのに、啓太は自分がこんなにも和希に飢えていたことを知った。自分が怒って和希を避けていたとはいえ、今ではなんて馬鹿なことをしていたんだろうと思う。心は、こんなにも和希を求めていたのに。 　唇を重ねてすぐ、啓太は自分から少しだけ唇を開いていた。それに対して和希も啓太の意図を察して応えてきた。 　啓太の中に自分の舌を割り込ませ、思うさま啓太の唇や口腔内を貪る。飢えていたのは和希も同様で、求めても求めても満足できなくて、さらに荒々しくくちづけた。 「は･･･ぁ、和････んっ･･･」 　ほんの少し離れても、すぐにまた唇が奪われ蹂躙される。 　途中から単なるキス以上に気持ちが煽られて身体が熱くなってきて、啓太の頭の中で警鐘が鳴ったが、それでも自分から離れることはできなかった。 　和希がこんなにも自分を求めてくれているのがわかるから、ついつい啓太もそれに必死で応えたくなってしまって。つたないながらも、自分からも積極的に和希を求めた。 　――ようやく長いくちづけが終わって離れたとき、二人を透明な糸がつないでいた。 　けれど啓太はそれを拭わなきゃという意識もかすれていて、自然に途切れるに任せた。一人で立っていることもできなくて、そのまま和希に寄りかかる。 「はぁ･･･ちょっとたんま、和希･･･。俺、息整えて少し休まないと歩けない･･･」 「大丈夫か？」 「ん･･･」 　今にも足が砕けてしまいそうなのに、腰に手を回したまま平気な顔で支えてくれる和希のことがちょっとだけ恨めしい。 　経験と技巧の差を見せつけられているようで、しゃくに障る。 　それでも現実に翻弄されてしまったのは自分のほうなのだが。 「ふぅ･･･。うん、もう大丈夫」 「ならよかった。じゃあ行こうか、啓太」 　腰から離れた手が啓太に向けて差し出された。それに対して啓太は、笑顔で和希の手に自分の手を重ねた。 「あれ･･･？　和希、教室はあっちだろ？」 「なに言ってんだよ啓太。俺たちがこれから行くのはあそこだろ？」 　啓太の疑問に、和希が振り返って答えた。 　指で進行方向にある、ある建物をちょいちょいと指し示す。 　和希が指差した場所、それは本来学生は立ち入り禁止のはずの、サーバー棟だった。 「･･････授業は？」 　啓太は呆れ果てた視線を和希に向けた。それでも和希は悪びれずに啓太に笑いかけてきた。 「啓太は出たいのか？」 「だって･･･やっぱ、授業は授業だろ？」 「ふうん？　まあ確かにそうだけどな」 　つないでいた手を持ち上げられ、和希が啓太の手の甲にくちづけを落とした。それから顔は離さないまま上目遣いでじっと見つめられる。 「う･････」 　啓太は和希の視線に少したじろいでしまう。 　熱っぽく･･･自分を望んでいる視線だとよくわかるから。 　その瞳に絡めとられて、さきほどのキスで煽られた熱に再び火がつきそうになってしまう。 　これから授業だからと、なんとか宥めたというのに。 「ふ、二人でさぼったら、あとでノートを他のやつらに見せてもらわなきゃいけないだろ」 「まあな」 「･･････俺、そんな恥ずかしい役やだからな。顔に出ちゃうかもしれないし･･･。和希が声をかけろよ」 　啓太がそう言うと、いっそう楽しげに和希が笑った。 「ＯＫ。俺がノート借りて啓太にも見せてやるよ。じゃそういうわけで、善は急げだ啓太！」 「わわっ。いきなり走り出すこともないだろ!?　それに全然『善』なんかじゃ･･･っ」 「いいからいいから。若いから抑えがきかないんだよ」 「そんなこと言って、和希は俺よりずっと年上だろっ!?」 　啓太の叫びを意に介さず、和希はそのまま上機嫌で啓太をサーバー棟まで引っ張っていったのだった。