丹羽が見舞いに来た翌日は、丹羽の話どおり西園寺や七条、それに中嶋も啓太の病室にやってきた。前日に続きベルリバティの人間と会えたことで、啓太が満面の笑みで西園寺たちを迎え入れる。
「こんにちは！　わざわざいらしてくださってすみません西園寺さん」
「気にするな。単に会計部として学生の代表で様子を見に来ているだけだ。なにも特別なことではない」
「そう言いながら郁は、今日伊藤くんに会えるのをとても楽しみにしていたんですよ。僕もそうですが、やはり伊藤くんがいないととても寂しいですよ。お加減はどうですか、伊藤くん」
「ありがとうございます七条さん。少しだるい感じはしますけど、大丈夫ですよ」
「んなこと言って、今日もあんまり顔色がよくねえじゃねえか。いいから寝てろ。俺たちはおまえに気を使わせるために来たわけじゃねえんだからよ」
「丹羽の言うとおりだな。俺たちは単に伊藤の顔を見に来ただけだ。長居するつもりもないし、そのまま横になっていろ」
「すみません、中嶋さん･･･」
　丹羽たちに促されて、啓太は一度起こした体を再びベッドに横たえる。実際体がだるく、横になっているほうがずっと楽だった。
　啓太はベッドサイドにいる丹羽たちを順番に見ていく。そこで啓太は、昨日丹羽から告げられた人物が一人いないことに気づいた。
「王様。確か昨日の話では篠宮さんもいらっしゃることになっていたんですよね？」
　なんの気なしに丹羽に聞くと、丹羽よりも早く中嶋が反応した。
「ああ、昨日の話か。丹羽があらかじめ決められていた予定を繰り上げてわざわざ学生会の仕事をさぼってまで伊藤の見舞いに来たときの話だな」
「そうですね。丹羽会長が僕たちを出し抜いて、一足先に一人だけ伊藤くんのお見舞いに行くという卑怯このうえないことをしたときの話ですね」
「中嶋さん･･･七条さん･･･」
「･･････おまえらなあ･･･」
　日頃仲が悪いくせにこのときとばかりに示しを合わせたかのような中嶋と七条に、丹羽はげんなりとした声をあげる。
「もしかして昨日王様がここに来たことは言っちゃいけないことだったんでしょうか･･･」
「いや。もうすでに昨日丹羽から話は聞いてあるし、丹羽が一人だけ勝手な行動をした件についても昨日のうちにさんざん話はした。だから啓太がそのことを気にする必要はない。また篠宮の件についてだが、私に考えるところがあって篠宮には今日は引いてもらった。篠宮は啓太のことを気にしていたがな。･･････篠宮に会いたかったか啓太」
　毅然とした口調で啓太に説明した西園寺が、最後だけやわらかい口調になり啓太に問いかける。それに対して啓太は少し考え込む素振りを見せた。
「･･･会いたいかと聞かれると、やはり篠宮さんとはしばらく会ってないし、人寂しくなっているから会いたいです。でもどうしても今すぐに会いたいというところまでではないです。今日は会えなくても、またすぐに会えると思いますから。それより、西園寺さんが考えていることというのが気になります。――もしかして和希のことですか」
　ベッドに横になっていても、まなざしだけは強く啓太が西園寺を見つめる。その視線の強さと啓太の直感に一瞬目を見張った西園寺は、逆に啓太に聞き返した。
「啓太。どうしてそう思う」
「理由はありません。ただなんとなくそう思っただけです。･･･というか、きっとただの俺の不安と願望の表れです。今一番気になっていることだから･･･」
「正解だ、啓太。おまえと忌憚なく遠藤の話をするために篠宮には引いてもらった。篠宮には悪いが、いればどうしても遠回しな言い方でしか話せなくなるからな。私はそういうじれったい会話は嫌いだ。無論、篠宮には別の理由を伝えてある」
「和希の話って、和希になにかあったんですか!?　和希がここに来ないのって、なんの連絡もしてこないのって、なにか理由があるんですか!?　もしかして和希の身になにか――」
「落ち着け啓太。おまえが落ち着いて話ができないのならこの話はやめる。病人を興奮させるために来たわけではないからな」
「･･･っだって･･･」
「伊藤くん、少し落ち着いてください。郁の言うとおりです。遠藤くんの名前を出しただけでその状態なら、この先の話はできませんよ。この話には一切触れずに、当たり障りのないお見舞いだけですませるという選択肢もあったんです。それをあえてしなかった僕たちの気持ちを汲んでまずは落ち着いてください」
　和希の話と聞いてそれだけで先走ってしまった啓太を落ち着かせるように、七条が優しく説く。興奮でベッドから起き上がりかけた啓太の体を、再び横たえた。
「伊藤くん、少し熱があるんじゃないんですか？　体があたたかいですよ」
「それでも話はできますっ。だから、やめるなんて言わないでください」
「わかってますよ。ああ、そんな顔をしないで。本当に･･････罪な人ですね、あの人も」
　和希の話を聞こうと、懸命にすがるような啓太の表情を見て、七条はこの場にいない男に向けて小さく呟いた。
「――まずは最初に確認だがな、啓太」
「はい･･･」
「今も言ったように私たちは啓太を興奮させたり、不安にさせるためにこの話をするわけではない。もともとが見舞いだ。啓太の顔を見て、啓太と少し話をすれば本来の目的は果たせる。ただそれだけで遠藤のことに一切触れないのは、啓太をますます心配させるだけだろうと昨日啓太と会った丹羽が言った」
「王様･･･」
「昨日、ここの帰りにやっぱ遠藤のことが気になってな。それで郁ちゃんに相談したんだ。そしてやつのことについて七条や中嶋たちとも手分けして少々調べた。啓太にこの話をしたほうがいいと言ったのは俺だ。なにも知らないままでいるほうが不安になるだろうし、啓太なら話を聞いたあとから出てくる不安なら、自分でどうにか乗り越えていくんじゃないかと思ったからな」
「それにこれはやつのためでもあるだろうな、私も啓太に話すことに同意した。まあ話といっても大したことではないがな。単に昨夜も今朝も遠藤は寮に帰ってきていない、外泊届けは出ている、それだけだ」
「遠藤くんの姿を、少なくとも僕たちはここ数日誰も見ていません。外泊届けは三日前に出されています。理由は家の用事で、期間は一週間。でもこれは場合によっては延びる可能性もあるという一言が添えられていました」
　簡潔に言った西園寺の言葉に、七条が補足する。啓太は西園寺や七条の言葉を一言も漏らさないように受け止めた。
「家の用事･･･一週間･･･。やっぱり和希、仕事が忙しいってことなんですね」
　和希が外泊届けを出しているということは、急ななにかのために姿を見せないのではなく、前もって予定があったというだけなのだ。啓太はそう解釈し、肩の力を抜いた。
　たとえどんなに仕事が忙しくても、自分になんの一言も残されていないというのは、限りなく寂しいことだけれど。
　それでも仕事で多忙な和希に自分のことを主張するのは、啓太にはとてもわがままで子供じみた行為に思えた。逢いたいけど、それで和希を困らせたくはない。
「ありがとうございます。外泊届けが出ていると聞いてちょっと安心しました。それなら少し寂しいけど和希の仕事が落ち着くまで我慢――」
「俺と七条とで遠藤理事長のスケジュールを調べた。この一週間、すくなくとも公の仕事は一切入っていない。やつは休暇中ってことになってるからな。ついでにやつの居場所も調べてみたが、特に目的があっての休暇でもなく、自宅やおもだった場所にはまったく姿を見せていない。言わば失踪中ということだな」
「･･････え･･･？」
「ヒデ！　おまえ、もっと言い方ってもんがあるだろうがよ！」
「事実は事実だ。言い繕ったところで事実は変わらない」
「･･････和希が、いない･･･？」
　啓太の言葉を遮って告げられた中嶋の報告に、啓太の頭の中が一瞬真っ白になる。
　外泊届けが出ているなら、仕事で忙しいのなら寂しくても心配することはない。そう思っていたのだが。
「啓太は病人だろうがよ。事実にしろ、もっと気遣った言い方をだなあ」
「伊藤くん、中嶋さんが言ったことは確かに事実ですが、物事を正確に表している言葉でもありませんよ。遠藤くんの居場所がわからないのは、僕と中嶋さんが調べられた場所に限ってですし、いないと判断した場所にもただうまく足跡を消されているだけで、本当にそこにいないとは言い切れませんから。遠藤くんのことです、僕たちをうまくかわすぐらい充分ありえますから」
「啓太、臣の言うとおりだ。少なくとも遠藤は一週間、自分の意思で寮を出ている。つまり一週間程度すれば自分の意思で帰ってくるということだ。だったら余計なことは考えず、その日をおとなしく待つんだな」
「そうさ、変に考えるなよ啓太。遠藤が出てくりゃあ、こんなの笑い話になるんだからな」
　丹羽たちに口々にそう言われ、啓太は和希がいないという衝撃を脇におき、少し気持ちを落ち着けて話しはじめた。
「ありがとうございます。俺に和希のことを教えてくれて。なにも知らないままだったらきっと一人で不安がっていたと思います。でも西園寺さんが教えてくれましたし、俺一人だけじゃわからないことを中嶋さんや七条さんが調べてくれたからすごく助かりました。王様も、昨日の俺の様子だけで、和希のことを気にかけて俺に教えてくださってありがとうございます。ほんとに、感謝しています」
「いや、いいってことよ。それより啓太――大丈夫か？　もっと別の言い方で啓太に説明するはずだったんだけどよ、ったく中嶋のやつが･･･」
「大丈夫ですよ王様。俺そんなに弱くないですよ。西園寺さんの言うとおりこれは和希の意思なんだし、和希の身になにか起こったわけじゃないですしね。だから、平気です。和希が外泊届けを出してもう三日経っているのなら、あともう少しですし。その間に俺は俺で、早く退院できるように体を治します」
　丹羽、中嶋、西園寺、七条。一人一人の顔を見て啓太ははっきりとそう言った。その声は落ち着いており、表情も穏やかなものだった。
「そうだな。啓太が早く元気になってベルリバティに帰ってきてくれねえと、俺たちもさみしいからな」
「誰かさんは相変わらず仕事をさぼりがちだしな。伊藤が早く戻ってこないと確かに困るな」
「はい、昨日王様にお見舞いに来ていただきましたし、その分も含めて退院したら俺たくさんお手伝いしますよ」
「伊藤くん。学生会ばかりひいきしたらいやですよ。ぜひ会計部のほうもお願いします」
「はいわかりました七条さん。会計部のほうも喜んでお手伝いさせていただきます」
「啓太･･･」
　眉根を寄せた西園寺に名前を呼ばれて、啓太の視線が西園寺に移った。
「なんですか西園寺さん」
　西園寺の目を穏やかな瞳で見返す啓太に、西園寺は問いかける。
「遠藤のこと、ちゃんと理解したな。あと数日で帰ってくるんだ、啓太が心配するようなことはなにもないからな」
「わかってますよ。俺、大丈夫です」
「･･････なら、話は終わりだ。体、早く直せよ」
「はい。ありがとうございます」
　微笑みを浮かべて答えた啓太にゆるくかぶりを振り、西園寺は啓太に背を向けた。
「じゃあこれ以上伊藤くんを疲れさせてはいけませんからね、僕たちは帰ります。伊藤くん、お大事に」
「啓太。またな。早く元気になれよ」
　横になっている啓太にそれぞれ挨拶をして、丹羽たちは啓太の病室を出て行った。啓太はドアが閉まるまで手を振りながら丹羽たちをベッドから見送った。
　――ドアが閉まると、これまで四人もの人間がいてにぎやかだった分、途端に静けさに襲われた。空気が重くなったような気さえする。
　啓太は一つ息をつくと、両腕で自分の顔を覆った。
　見送る最後の最後まで笑えていたと思う。
　わざわざ見舞いに来てくれた人たちを心配させずに、明るい雰囲気のままで帰ってもらいたかった。西園寺も言っていたように、別に自分を不安にさせるために持ってきた話ではないのだから、そこで自分が不安そうにしていたら西園寺たちを悲しませることになるのだ。
　でも、もう病室には一人きりだ。
　ここにはもう誰もいないから、本音を口にしても、どんな表情を見せてもかまわないのだ。
『啓太。馬鹿だな、なんて顔してんだよ』
『やっぱり俺がいなくて寂しいんだろ。ほら、素直にそう言ってみろよ』
『勿論、俺だって啓太に会えなくて寂しかったよ。――好きだよ啓太。ずっと会いたかった。早く仕事を片付けて、こうして啓太のところにとんで帰ってきたかったよ』
『大好きだよ、俺の啓太』
「･･････和希･･･和希･･･っ」
　耳の奥で和希の声がよみがえる。
　実際にはもうずっと和希の声を聞いていないのに、記憶の中の和希は哀しくなるぐらいに鮮明だった。
「和希･･･逢いたいよ･･･」
　腕で隠した啓太の目元から涙がこぼれた。
　どこにいるかわからない和希。仕事ではなく休暇中だという。三日前に出された、一週間の外泊届け。
　西園寺たちから聞いた符合が頭の中をぐるぐる回り、いっそう逢いたい気持ちが募った。
　休暇中なのに会いにこないなんてと怒っているわけではなくて。
　なんの連絡もいれないことを恨んでいるわけでもなくて。
　ただ、逢いたいと思う。
　自分のことを忘れてしまっているのかとか、放っとかれているのかという思いもなく。
　逢いたくて。
　顔を見て、その声を聞き、その体に触れて抱きしめられたくて。
「和希･･･」
　啓太はひたすらに想いをのせて、その名前を呟き続けた。



　啓太の病室から離れた場所で、西園寺は確かにその声を聞いた気がした。
　物理的には不可能な距離であっても、啓太の声が一つの名前を紡ぐのを確かに聞いたと思った。
　深い想いと寂しさをのせた呼び声。
　受け止める者はなく、おそらく一人きりの白い部屋にただ吸い込まれるだけのもの。
「郁」
　病院の廊下を無言のまま早足で歩く西園寺に、後ろから七条が声をかけた。
「どうかしたんですか？　伊藤くんの病室を出てからずっと黙り込んでいますね」
「別に。どうもしない」
「なにかに対して怒っているんですか？　それは僕たちの前で無理して振る舞っていた伊藤くんに対してですか？　それとも伊藤くんを慰める手段を持たない郁や僕たちについて怒っているんですか？　それとも――」
「すべてに対してだ」
　七条の詮索めいた言葉を、西園寺は一言で切り捨てた。振り向かないままさらに歩を進める西園寺に、七条は曖昧な笑みを浮かべる。
「仕方ないですね。僕たちがあの場で伊藤くんの本音を引き出したところで、最終的に伊藤くんの気持ちを救えるわけではないのですから。伊藤くんの本音を引き出しても、それはただいたずらに伊藤くんが隠したがっている内面を暴き立てるだけに過ぎないわけですし、だったらこのままおとなしく引くことが伊藤くんにとって最良の方法なんですから。･･････伊藤くんにこれ以上気を使わせたくはないですしね」
「･･･啓太が大丈夫って言ったら、大丈夫なんだろ。要するに俺たちじゃ踏み込めないってことだろ。ま、わかってたことだけどよ･･･」
　七条の後ろで丹羽がぼやく。和希の居場所がわからないという話を啓太にすれば、啓太がそれで塞ぎ込むのは目に見えていた。それでもなにも知らないままでいるよりは事実をはっきりと知りたいだろうし、また啓太なら一時的に塞ぎ込んでも、それを自分の中でどうにか消化できるだろうと思ったから話すことにしたのだ。
　啓太の無理している顔を見るのは予想以上につらく、今すぐ本音をぶちまけろと言いたくもなったけれど。
「まあ･･･なんだな。啓太が本音を言える相手は一人で充分なわけだしな」
「その一人についてだが――遠藤が外泊届けを出した三日前に啓太の最初の検査結果が出たらしい。無論その検査結果の内容まで知るすべはないが、おそらく無関係ではないだろう。あの遠藤が啓太になにも告げずに行方をくらましたんだ、啓太に関係あることだからこそそうしたんだろうな」
「伊藤の検査の結果がわかってから遠藤は行動を起こしたというわけか。つまり本当にそれが正しいのなら、伊藤の検査の結果は、遠藤に一週間の外泊をさせるほどのものだったってことだな」
　冷静にそう分析した中嶋の声に、慌てた丹羽の声がかぶさった。
「おいヒデ！　それはどういうことだよ！　そんな言い方したらまるで啓太がっ」
「病院で喚くな。あくまでも推測だ。――ただし、充分ありえる推測だがな」
「だからそんな言い方をしたらまるで啓太がものすごい病人みたいじゃねえかよ！　不吉なことを口にするんじゃねえっ」
「丹羽、啓太の検査結果がどうであったか、それにより遠藤がどんな行動を起こしたか事実はわからない。結局ここで話していても推測の域を出ることはない。真実はただ一人、遠藤だけが知っていることだ。――まずは遠藤の居場所を突き止めて話を聞く。すべてはそれからだ」
　後ろから聞こえた丹羽たちのやりとりを、西園寺が落ち着いた声でまとめた。それについて七条がぽそりと呟く。
「いい年してかくれんぼしているような人を探すのは気が進みませんが･･･まあ、伊藤くんのためですしね。自分の足で探しにいけないかわいそうなオニのために、遠藤くんを引きずり出すことにしましょう」