『･････お母さん･･･お兄ちゃん･･･どこ･･･？ ･･･お母さん･･･お兄ちゃん･･･どこにいるの･･･お母さん･･･っ』 目の前にいる少年が熱い息を吐きながらうなされている。全身が汗ばみ、苦しさのあまり閉じられたまぶたからはぽろぽろと涙がこぼれていた。 求める存在を探すように伸ばされた手を、必死になって掴み、名前を呼ぶ。 『啓太！ 啓太っ！』 『いやだ･･･そばにいてよ･･･僕のそばにいて･･･行かないで･･･っ』 『啓太、俺はここにいるよ、ここにいるからっ！』 だが何度呼んでもその声は届かず、少年はうなされたままだった。 背後にいた誰かの手が両肩に置かれ、邪魔だとばかりに少年から引き離される。もっと力を入れて握りしめようとした手ははずされ、自分と少年との間に白衣姿の人間が割り込むのが見えた。 少年の表情すら、もう見えない。 『いやっ･･･そばにいて、僕を置いていかないで･･･いやだ･･･っ･･･お兄ちゃん･･･っ！』 『啓太･･･っ！』 周りの大人たちの会話が意味を持たないものとして流れる中、少年の声だけははっきりと聞こえた。 いつだって無邪気に笑って自分を呼んでくれた少年の声が、今はあまりにも悲痛な響きを帯びている。 『･･･行かないで･･･っ』 『･･････っ』 目元が熱くなり、視界がぼやける。 引き離された距離を埋めたいと思いながらも、今の自分がなんの力もない子供だということはわかっていた。無理やり側に行っても、少年の助けにはならない。側に行ってその手を掴んでも、幼い手の震えを止めることなどできない。 ただ自分が側にいたい、それだけの理由であって、それは今の少年にとってなんの益にもならない。 『･･････っ･･･ごめ･･･ん』 頬を濡らすものがなにか知覚しないまま、唇から小さな声がこぼれた。この部屋にいる慌しく動き回る大人たちの誰もが気づかないほどの小さな呟き。 『ごめん･･････啓太･･･っ。ごめん･･･ごめん･･････っ』 あのとき、自分が啓太と遊んでいなかったら。 あのとき別の遊びをしていたら。 研究所の鍵が開いていることに、もっと早く気づいていたら。 そんなたくさんの後悔が押し寄せる。 謝ったところで起こってしまった事実は動かせない。自分が無力で少年を助けられないことも変えられないが。 それでも、謝罪の言葉を口にせずにはいられなかった。自分が守ると決めていたのに守れなかった――むしろ自分のせいで苦しめてしまった少年に向けて。 『ごめん･･････ごめんなさ･･････っ･･･』 『――どうして、俺に謝るの？』 ふっと、空気が変わったように。声が、聞こえた。 『和希が俺に謝る必要なんかないだろ』 目の前には、啓太がいた。ベルリバティの制服を着ている、高校生の啓太が。 今まで周りを取り囲んでいた大人たちの姿も、離れた場所で寝ていたはずの少年の姿もいつの間にかかき消えていた。今いる場所がどこかわからなかったが、少なくともあの部屋じゃない。 そして啓太を見る目線も、もう子供のものではなかった。 『俺は、大丈夫だよ。だって俺の運は強いし、それになにより、和希がいてくれるからさ』 『啓太･･････』 名前を呼ぶと、少し照れたような表情でこちらをまっすぐ見つめてくる。ああ、啓太だ――というしみじみとした感慨に包まれた。 啓太を正面から見つめ、改めて口を開く。 『啓太、ちゃんと助けるから。今度こそ俺の力でおまえを助けるよ。もう少しだから、それまで待っていてほしい･･････』 そう言うと、啓太がふわりと笑った。華のある、それでいて眩しいほどに強い啓太の笑顔。 言葉はなくとも、その笑顔だけで充分だった。 啓太の笑顔に惹きつけられて両手を伸ばす。目の前に立つ啓太をそっと引き寄せ、そのまま抱きしめた。 腕の中に淡いぬくもりを収めた――と感じた途端、そのぬくもりが一瞬にして拡散する。腕の中はもうなにもない、ただの空間だった。 それでも、和希はそれを寂しいとは思わなかった。 たとえここにはいなくても、心の奥、ほのかに残るあたたかさがある。 久しぶりに、真正面から見つめた啓太の笑顔。 『逢いたいよ、啓太･･････』 心の底から、そう思った。 和希が目を開けたとき、側にあったのは人間の二本の足だった。 「･･････」 今まで感じていた心地よさを一瞬にしてかき消され、和希は憮然とした気持ちで身体を起こした。寝かされていたのはただの床で、どうやら意識を失ってから本当にそのまんまその場に転がされていただけだと気づく。脱がされた白衣が身体にかけられていたのが、せめてもの情けのつもりだろうか。 身体を起こしたとき、背中と腹部の痛みを感じて顔をしかめた。 「遠藤。起きたのか」 二本の足の持ち主が、和希が目を覚ましたことに気づいて上から声をかけた。 「･･････俺はどのくらい寝てましたか？」 「四時間弱ってところだな。もう少ししたら蹴り起こそうと思っていたところだ」 「王様にそんなことされたら、そのままさらに意識なくしちゃいますよ。西園寺さんは？」 「そこにいるぜ」 丹羽に指で示された方に視線を移す。そこには椅子に座った姿勢のまま眠っている西園寺の姿があった。 「郁ちゃんも今はすることないから仮眠中だ。睡眠不足は美容に悪いんだとよ」 「そんなこと言ったらあとで西園寺さんに怒られますよ。西園寺さんはそんなこと気にする人じゃないでしょう」 自分にかけられていた白衣をつかみ、立ち上がる。軽く伸びをすると、丹羽が口元に笑みを浮かべてこちらを見ていた。 「･･････なんですか？」 「いや。やっぱさっきよりましな顔をしてると思ってよ。どうだ、疲れは取れたか？」 「･･････鳩尾が疼きますよ」 和希がそう言うと、丹羽が途端に吹き出した。 「それはしょうがねえな。それはてめえの自業自得だろ？ 俺は今までの借りをまとめて返しただけだぜ」 「前にも言いましたけど学内の暴力沙汰は退学も有り得るんですよ、王様」 「でもここは学内じゃないしな。そもそもそんなもん、俺にとっちゃくそ食らえだけどよ」 「まったく･･･王様は年長者に対する態度をきちんと身に着けるべきですね」 「でもそのおかげで少しは休めただろうが」 丹羽にそう言われて、和希は持っていた白衣に袖を通しながら答えた。 「少し頭がすっきりしました。でもそれは王様のおかげなんかじゃないですよ。啓太の･･････おかげです」 「へえ･･･」 丹羽は興味深そうな顔を見せたが、それ以上は聞いてこなかった。和希も、これ以上口にしようとは思わなかった。夢の中の啓太を自分の想いの中だけに包み込む。 それから和希は自分が意識を失っていたときの進行状況を把握するために作業台の上を一瞥し――最後に、片隅においてあるパソコンに目を移した。 今現在も刻々と送られてくる啓太の身体データ。急激に悪くはなっていないものの、いまだ回復の兆しは見られない。 遠く離れた啓太の状況を知らせてくる唯一の情報源であるその画面に見入りながら、和希は、これが今の自分と啓太を繋ぐ唯一のものなんだということを改めて認識した。 今目の前にあるパソコンは、啓太と繋がっている。今頃啓太は、病院のベッドで眠っているのだろうか。もしそうなら、その眠りが安らかなものであればいいと願う――あのときのような苦しそうな眠りではなく。 「啓太の状況に変わりはねえよ。それより、こっちのことだけどよ、郁ちゃんと俺で少しは進めておいたぜ。あんとき中途だったこれの実験の結果も――遠藤？」 「･･････王様、啓太は本当に泣いていましたか？」 丹羽を振り返り、真摯な瞳で和希が問う。 強いまなざしに見据えられて、丹羽も和希をまっすぐに見返して答えた。 「泣き顔は見せねえよ、啓太は。少なくともこういうとき、俺や郁ちゃんの前で簡単に泣くやつじゃねえよ。実際は無理して笑ってたぜ。･･････痛々しいくらいにな」 「･･････」 「多分、啓太は一人でいるときに泣いてたのかもな。だからさっき郁ちゃんが言ったことはただの当てこすりでもなく、事実でもあると思うぜ。啓太が泣けるのも本当の意味で笑えるのも、誰かさんの前だけなんだろうな」 「･･･笑っていて･･･ほしいですね。啓太には･･････いつでも。啓太の笑顔は俺にとって、本当に大切な宝物ですから」 「だったらてめえが啓太を心から笑わせてやるべきだろうが。俺だって、啓太のあんな無理している顔は見たくねえよ。遠藤がちょいと顔を出せば、啓太はすぐに安心して笑顔を見せるだろうよ」 「それは･･････どうでしょうね」 和希の脳裏に、夢の中で見た啓太の笑顔が思い出された。 『大丈夫だ』と言いきり、自分に向けて微笑んだ啓太。あれは自分の願望なんだろうか。 啓太に大丈夫だと保証してもらいたくて。啓太に過去のことを謝る必要なんかないと許されたくて。そして啓太に、笑顔を向けてほしくて。 ただ自分の願望が具現化しただけの夢なんだろうか。 それとも、本当に啓太は――。 「なんだよ。自信なさげだな」 「自信なんていつでもないですよ」 「でも自分に自信がねえことと、啓太を信じることとは全然別の話だろ。遠藤が啓太に会ったとき、本当に啓太の表情や態度が俺たちに対するものと同じだと思っているわけじゃねえんだろ。遠藤の知ってる啓太を、信じるべきなんじゃねえのか」 「――」 丹羽の言葉に、和希は口をつぐんだ。 和希の脳裏に再び、夢の中で見た啓太の笑顔が思い出された。 否、夢の中ではなく、自分の心の中にいる啓太の本当の笑顔――が。 「･･････」 和希はしばらく無言でいたが、やがて丹羽の顔を横目で見ると深い溜息をついた。 「なんだよ。そんな浮かねえ面で人の顔見てよ」 「いえ･･･自分より年下の人間にそんなことを言われたこの状況に思わず溜息がこぼれたんです。ましてや王様に恋愛ごとについて口を出される日がくるなんて･･････」 「なんだよ、その言い草はよ。だいたいてめえがぐちぐちしてるからいけねえんだろうが。啓太や俺より年上だって言うんなら、年上らしくもっとしゃんとしやがれ！」 「はいはい」 丹羽の一喝に適当な調子でそう返事をしたあとで、和希はもう一度だけ啓太と自分とを繋ぐパソコンのディスプレイに視線を投げた。 それから丹羽に向けて再び口を開く。 「王様。俺は自分の力で必ず啓太を助けます。昔はなにもできず、他人の力をあてにするしかなかった。でも今度は俺自身の力で絶対に啓太を守ってみせます。そして――啓太が俺を待ってるなら、俺は早急にすべてを終わらせて啓太に会いに行きます。啓太の元気な姿と啓太の笑顔を早く見たいですから」 「だったら、今からでも啓太のところに行って先にちょいちょいと顔を見せてやればいいんじゃねえのか？」 「それは、できません。自分がすべきことを放り出して先に啓太に会ってしまったら、俺はそのままそこを離れられなくなりますから。啓太が心配で離れがたくなって、俺はきっとそこで止まってしまう」 「いままでさんざん会わない、会う資格がないだのほざいてたやつが離れがたくなるだなんて矛盾してるんじゃねえのか。それに『啓太が待ってるなら会いに行く』、か。じゃあ啓太が待ってなかったら遠藤は会いにいかねえんだな」 「――訂正します。啓太が待っていなくても、俺は啓太に会いに行きますよ。俺自身が啓太に会いたいですから」 丹羽の揚げ足取りにも似た言葉に、和希は生真面目に言葉を連ねる。 「啓太はもう遠藤に愛想つかした頃かもしれねえぜ。今頃、もう顔も見たくないって思ってるのかもな。じゃなかったら顔を見たとたんに拳が飛んでくるとかな」 「それでも俺が、今は無性に啓太に会いたいんです」 再三にわたって丹羽に煽られても、和希の気持ちにもう揺らぎはないようだった。 そして丹羽は気づいた。この部屋に足を踏み入れたときにはピリピリしていた和希を取り巻く空気が、いつの間にか払拭されていることに。 「へっ。啓太に早く会えるように、せいぜい頑張るんだな」 「勿論頑張りますよ。それに王様も手伝ってくれますしね」 「うるさいだけで役に立たない人間は不要なんじゃなかったのか？」 「えっ、王様、中嶋さんか西園寺さんにそんなひどいことを言われたことがあるんですか!?」 「てめえなあ･･････」 丹羽のぼやきに笑みだけ返したあと、和希は着ていた白衣の襟元を直した。それから作業台に向き直る。 「西園寺さんには悪いんですけど、すぐに起きてもらいましょう。――休んでいた分を取り返します」 自分に向けて、和希はそう宣言した。 |