深淵 〜全部〜 １ 「――って、そんな理屈が通ると思ってるんですかっ!?」 ガラガラガッシャ〜〜〜ン！！！！――というけたたましい音を響かせて、数学教諭室のドアが思いきり引き開けられた。 その音のすごさというよりも聞こえてきた声に、空はハッとしてドアを振り返った。 「七海ちゃんっ!?」 「七海ちゃん、じゃないでしょうっ!? 羽柴くん、真一朗に同情したんですか!? それとも本当は真一朗のことが好きなんですかっ!?」 突然この場に現れた七海に睨まれて、空は今自分が立っている場所を思い出す。 真一朗の胸に手をあてて、ほとんど、唇を合わせる直前だったのだ。 「七海ちゃん、これはっ」 「――ちぇっ。いいとこだったんだから邪魔すんなよ七海。おまえ、すっげー野暮だぜ？」 「真一朗っ！！！！」 慌てて身を離そうとした空の手をつかんで、真一朗が引き止める。 七海はつかつかと足音も荒く二人のそばまでやってくると、べりっという感じで真一朗から空を引き離した。少し体が浮き上がったほどのその強い力に、空は一瞬呆然とする。 「保健室に来た本城くんに、羽柴くんが真一朗に呼び出されたなんて聞かなかったら、大変なところでしたよっ！ まったく、油断もすきもないっ！」 「･･･七海。確かオレ、ちゃんと鍵をかけておいたはずだけど、おまえそれをぶっ壊したのか？」 「当たらずも遠からずですね。こんなこともあろうかと、あらかじめここの鍵を壊しておいたんです。正確に言えば真一朗に気づかれないように、半分だけ壊しておきました」 「げ。油断もすきもないのはどっちだよ、七海･･･。そのうちオレもおまえんとこのドアの仕組み壊すぞ」 「どうぞ御自由に。私はちゃんと定期的に点検していますから、誰かさんみたく気がつかないなんてことはありませんから」 「うわっ、かっわいくねー。おまえってほんと性格わりぃよな。空、悪いことは言わねえからこいつだけはやめとけよ。あとで苦労すんのは目に見えてるからな」 「･･････ええっと･･･？」 目の前で繰り広げられる真一朗と七海の舌戦についていけずに、空がそれだけを口にした。 確か真一朗と取引をして、それで自分は彼に抱かれるはずだったのだ。そこに七海がやってきて――。 自分の記憶が正しければ、確か七海が入ってくる前はすごく重い空気が部屋の中に充満していたはずなのだが、何故今はこんなふうににぎやかな雰囲気に包まれているのだろうか。 「な、七海ちゃん･･･」 七海に現在の状況を解説してもらおうと、空は七海に救いを求めてそちらを見やった。すると、七海からはたちまちきつい視線が返ってきた。 「七海ちゃん――」 「だから、七海ちゃん、じゃないでしょう!? 羽柴くん、私に言うことがあるんじゃないですか!?」 腕組みをしている七海に苛立たしげに問われて、空は言葉を詰まらせる。 「え、えっと･･･今の、これは･･････」 「事情ならもう知ってますよ。廊下にいるときに聞こえてきましたから。そうじゃなくて、一番最初に羽柴くんが私に言うべきことがあるでしょう!? それとも羽柴くんは私に対して、そんな気持ちはないってことですか!?」 「うわっ、おっかねえ。男のヒステリーってみっともないよなあ」 怒っている七海に真一朗が脇から茶々を入れる。だが七海の一睨みで、真一朗は小さく舌を出しつつもとりあえず口をつぐんだ。それから七海が開けっぱなしのドアのところに行って、ドアを閉めた。 あれだけ大きな音を立てても、幸いなことに付近には誰もいなかったらしい。陰険数学教師と優しい保健医の生徒を挟んだ三角関係が露見したら、たちまち一大スキャンダルとして校内を駆けめぐっていたことだろう。 真一朗がドアを締めきると、部屋の中に静けさが降りた。 「あ･･･」 空は七海の顔を見つめる。 今自分は、言うなれば真一朗と抱き合っていたのだ。それがいつもの兄弟的なじゃれあいでなかったことなど、自分が一番よく知っている。 「七海ちゃんごめん――ごめんなさい･･･」 「もうっ、遅いですよ!? それに、一回謝っただけじゃ許しませんからね」 「おいおい心狭いぞ、七海ぃ」 「外野は黙ってなさいっ！」 「･･･オレも当事者の一人だと思うんですけど、七海サン･･･」 空はもう一度七海をじっと見つめる。大好きな七海だからこそ、どんな感情を向けられても、すべて受け止めたかった。 「七海ちゃん本当にごめん。オレ、軽率だったかもしれない」 「だったかもしれないじゃなくて、羽柴くんは軽率だったんです」 「うん･･･マジ、ごめん･･･。ただ、言い訳をさせてもらうと、オレ七海ちゃんを守りたかったんだ。守りたかったって言うか、独占したかった。七海ちゃんを好きな兄ちゃんになんか絶対負けたくなかった」 「･･･って羽柴くん!?」 空がとつとつと喋る話のある部分に驚いて、七海が声を上げた。はたで聞いている真一朗はなにも言わなかったが、彼もまた七海が引っかかった部分と同じところに反応して苦笑していた。 「だってオレ、兄ちゃんが七海ちゃんを好きになる気持ちはよくわかるけど、でもだからといって譲れるわけないじゃん!? だから二度と七海ちゃんに触るなって兄ちゃんと取引したんだ。でも、そんなの七海ちゃんには関係ないことだよな。オレが勝手にバカなことをしたって思われても仕方がないよな。オレ･･･土下座でもするべき？ っていうか、土下座ぐらいじゃ全然足りない？」 「･･････空」 ふと真一朗に呼ばれて、空は視線をそちらに移した。 真一朗の顔を見て、空は彼にも悪いことをしたんだと‘自覚’する。 「兄ちゃん･･･オレ、兄ちゃんにもさんざんなことを言ったよね。そして結局中途半端なことをしたよね。･･･ごめん。オレ、もうあの約束は守れないけど、でも絶対七海ちゃんには――」 「それはわかってるさ。いいからこっち来いよ、空」 「･･････?」 「!! 羽柴くんだめですっ!!」 真一朗においでおいでをされて、空はよくわからないながらもそれに素直に従った。七海が真一朗の思惑に気づいたときには、空の腕は真一朗につかまれていた。 そして、強引に引き寄せられて。 「ん･･･っ!?」 「んｖ」 「真一朗〜〜〜っ！！！」 七海の目の前で、空の唇が真一朗に奪われる。なにも警戒していなかっただけに、無抵抗に、あっさりと。 七海に引き離されるまで、真一朗はしっかり空の口の中に舌まで絡ませていた。 「へへっ。いただきｖ でも七海、そんなに怒るなよ。別にオレたち、これが初めてじゃないんだし。な、空」 真一朗が飄々とウィンクをする。 それでも空は今の状況がよくわからなかった。真一朗にキスをされたのはわかる。けれど、何故今ここでされるのかが謎だった。‘七海を好きな真一朗’が、何故自分なんかに。これは、七海に対する嫌がらせなんだろうか。好きな相手だから、意地悪をする･･･？ 「羽柴くんっ!! 今私が軽率だと言ったばかりなのに、さらに軽率な行動をとらないでくださいっ。羽柴くんは今の自分の立場を自覚しているんですか!?」 「え･･･？」 「〜〜〜〜〜いいですかっ!? 大きな誤解があるようだからはっきり言いますが、真一朗が好きなのは羽柴くんなんですよっ!!」 「――え!? だって兄ちゃんさっき･･･っ」 「真一朗がなにを言ったのか知りませんけどね、簡単に騙されないでください羽柴くんっ！」 空は七海の言葉がどこか信じられなくて、真一朗を見やった。七海が来る前にさんざん真一朗が言っていた言葉からは、どう考えても自分を好きだという感情は読み取れない。 空が視線を移すと、真一朗と空の間を遮る七海の腕の向こうで、真一朗がにやりと笑った。そして悪気なさそうにあっけらかんと言い放つ。 「だってオレが空を好きだって言ったら、ふられて終わりだったじゃねえか。それより七海を絡ませた方が空も多少の罪悪感を感じるだろうし、オレに同情だってしてくれそうだし、その方が空とヤれると思って。実際七海が来なきゃヤってたよな、空ｖ あ、いっそ三人でってどうだ？ 最高にイイ思いさせてやるぜ空」 「お断りします。羽柴くんは私のものなのに、なんで真一朗を混ぜなきゃいけないんですか!?」 真一朗の言葉に、七海は空を自分の腕の中にしっかりと包み込んで言った。 「ちぇっ、つまんねーな。んなにけちけちしてると、そのうち空のほうがおまえのこといやになってくるぜ？ 空だってもっと自由恋愛を楽しみたいよなあ？ いろんな相手とのいろんなやり方を経験しておくっていうのも、人生に必要な大事な勉強なんだぜ」 「真一朗っ！」 「そうカリカリすんなよ、七海。そのうち頭から角がはえてくるぜ？」 真一朗が七海をからかうように両手の人さし指を、頭の上に立ててみせる。そのことで一度気持ちを落ち着けた七海は、ぴしりとした冷たい声で真一朗に向かって言った。 「真一朗、これは私からの命令です。今週末藤守くんと二人で出かけてくること。――いえ、やはりいいです。私たちのほうが出かけることにします。どこか人が来ない山奥にでも行って、たっぷりと羽柴くんにお仕置きしなくてはいけませんからね」 「な･･･七海ちゃ･･･っ･･･」 最後は腕の中の空に向けて微笑んでみせた七海に、すぐに空が顔を引きつらせた。七海の笑顔はいつもと違って余裕に欠けていたが、それだけにいっそう空にとっては怖かった。七海なら、本当に‘たっぷりとお仕置き’するかもしれないのだ。普段の七海ですら意地が悪いところもあるのに、怒っている七海が自分をどう扱うかなど、恐ろしすぎて想像できなかった。 「七海ちゃん･･･本当の本当にごめんなさい。本気で悪かったと思ってるから･･･。は、反省してます･･･」 「反省すれば私が許すと思ったら、大間違いですよ羽柴くん」 「･･･な、なみちゃん･･･っ」 「ああ、一週間ぐらい休みをとってどこかに引きこもるっていうのもいいですね。じゃあそういうことにしておいてください、‘水都先生’。私の代わりに休暇届けを出しといてくださいね。明日からもう私いませんから」 腕の中の空が本気で泣きそうになっているのを無視してそんなことまで言う七海に、真一朗は溜息をついた。 しっかりと空を抱きしめている七海の腕が、所有権を主張している。そして七海の腕の中の空も、その位置自体にはなんの異存もなく七海に体を預けていた。 その様子を認めて、真一朗はもう一度軽く息を吐き出しつつ、自分の前髪をかきあげた。 「まあそういうことにしてやってもいいけど。それより空、おまえ授業中居眠りした分は働いて返せよな。オレが命じたこと、中途半端にすんなよ。ほら、あれまだ途中なんだろ」 「あっ･･･」 真一朗に本棚を指差されて、空は途中のまま止まっていた本棚の整理を思い出す。 「ったく、仕事がおせえよおまえ。ちゃんと最後までやってから帰れよな」 「ちゃんと真面目にやってたのを邪魔したのは兄ちゃんのほうだろ。兄ちゃんが･･･」 ‘あんなことを言い出したから’。 空はそう続けようとしたが、あのときの言葉を思い出したくなくて口をつぐんだ。 黙ってうつむいてしまった空をいぶかしむように顔を覗き込んだ七海だったが、今度はその七海に真一朗から声がかけられた。 「七海、こいつオレの授業中に居眠りしたんだぜ。その罰として命じた仕事があるから、今こいつにやらせろよ」 「真一朗に指図されるいわれはありません」 「いいからやらせとけ。そしておまえには話があんだよ」 「――」 空を抱きしめていた七海の腕が解かれた。七海が、真一朗から視線をはずさないまま空を解放したのだ。 だが自分を包む腕がなくなっても、空はすぐに動こうとはしなかった。 ――‘話’。 真一朗と、七海とで。 空は七海と真一朗の顔を交互に見やる。そのおもてには不安そうな色があった。 そんな空をなだめるように。 「なんて顔してんだよ、空。仕事の話だよ。新しい仕事の打ち合わせ」 真一朗が笑いながら言った。 「七海と打ち合わせしたいから、その間おまえはさっきの続きをしてろ。あとでちゃんとオレが指示したとおりに並んでいるか、チェックするからな」 「･･･仕事の話だったらオレが聞いてたっていいだろ」 「羽柴くんには藤守くんがいるときに、一緒に話しますよ。羽柴くん、真一朗になにを頼まれたのか知りませんけど、さっさと終わらせて早く帰りましょう。羽柴くんの方が終わるまでには、こっちも話を切り上げますから」 「･･････うん、わかった･･･」 二人の話に割り込みたかった空だが、真一朗だけではなく七海にまで言われて、仕方なく引き下がった。実際命じられた仕事が終わらないと帰れなさそうなので、七海と早く帰るためにも、やるべきことをさっさと片づけてしまうしかなかった。 二人に――特に七海に――心を残しつつも、空は本棚に向かう。 真一朗が七海に右手の親指でドアを示し、真一朗の意を汲んだ七海がドアに向かった。 数学教諭室のドアがガラリと開けられる。 「――っ･･･兄ちゃん！」 七海と廊下に出ていこうとする真一朗に、空はたまらず叫んだ。 真一朗が足を止めて振り返る。 「約束守れよっ！ 七海ちゃんに触っちゃだめだからな！」 「空･･･。人の気持ち知ってて、まだそっちにこだわるのかおまえは･･･」 「だ、だって･･･」 「触るなって、たとえばこんなふうにか？」 にっと笑って、真一朗がそばに立つ七海の頬に手を当てて指を滑らせた。 「兄ちゃんっ、だからだめだってっ！」 「羽柴くんは、真一朗に触らせたくせに」 「――」 ぽつっと呟かれた七海の言葉に、空の体が固まる。そしてそんな空一人を室内に残して、無情にもドアが閉められた。 〔続く〕 |